秋の日の迷想

 紅葉に美醜の差なし秋日和

 紅色が青空めがけ伸び上がる

 これらの句の次に「目に紅葉(もみじ)野にホトトギス秋刀魚焼く」となれば、誰もが「目には青葉 山ほととぎす 初鰹」のパロディだとわかる筈です。この句は松尾芭蕉と親交の深かった俳人山口素堂の俳句。ところで、素道が「(目に)は青葉」と、「は」を入れた理由は何だったのでしょうか。そのあとに続く「山ほととぎす」と「初鰹」の前にも、「(耳には)山ほととぎす」「(口には)初鰹」と言う言葉を隠していたと考えると、目と耳と口で秋を感じ取ることが詠われていることがわかります。「目には青葉」に始まり、「耳には山ほととぎす」、「口には初鰹」と、三つの感覚(視覚・聴覚・味覚)が並列的に配置される構造が暗示されていて、実際には「耳には」、「口には」は省略されていますが、「目には」と言うことで、読者は自然に残りの感覚も補って理解できると解説されるのです。でも、「目に」だけでも十分それらが表現できると考えることもでき、私には「目には」と「目に」の違いがよくわからないのです。

 素堂は芭蕉と親交のあった江戸の俳人。この句は「鎌倉にて」という前書きがあります。「目のためには一帯の山の青葉、耳のためにはほととぎすと、鎌倉の初夏はすばらしい。さらに、相模の海の名物の初鰹もある。何とよい土地柄だろう。」と詠んだと解説され、初物好きの江戸っ子の美意識がわかるのですが、やはり、「目に」と「目には」の表現の違いがこの説明でもよくわからないのです。「目には」は「目に」を強調しているのでしょうか。

 「目には青葉」は「目に青葉」を、「手には技」は「手に技」をそれぞれ強調していると無条件で言えるのでしょうか。