空蝉と蝉の鳴き声

 『源氏物語』の中で光源氏との逢瀬を初めて拒んだのが空蝉(うつせみ)。空蝉は蝉の抜け殻のことですが、光源氏が口説こうと部屋に忍び込んだとき、上着のみを残して逃げてしまったことからそう呼ばれます。空蝉が光源氏を拒んだのは夫への誠意による行動で、光源氏のことは内心で魅力的に感じていました。

 光源氏と空蝉は、方違(かたたがえ)のために立ち寄った邸宅で出会い、一夜を共にします。一夜を過ごしたあと、源氏は空蝉に文を送ります。でも、空蝉は一切応じません。光源氏は空蝉を忘れられず、出会った邸宅を再び訪れますが、光源氏が来たことに気付いた空蝉は小袿(こうちぎ)を脱ぎ捨て、逃げ出したのです。空蝉に逃げられたことに気付かず、光源氏は同じ部屋で寝ていた継娘の軒端荻に寄り添います。第16帖の「関屋」では、光源氏が最初に空蝉に思いを寄せていた頃からおよそ12年が経過していました。石山詣でに行く途中で、偶然にも京へと戻る伊予介・空蝉の一行とすれ違います。光源氏は、改めて空蝉に歌を送ります。

「空蝉の身をかへてける木のもとになほ人柄のなつかしきかな」

(あなたは蝉が殻を脱ぐように、衣を脱ぎ捨てて逃げ去ってしまったが、その木の下であなたのことを懐かしく思っています)

蝉の抜け殻は、昔から恋愛の感情を表すのに使われてきた言葉。この歌では人柄の「柄」と抜け殻の「殻」をかけています。一方、空蝉は次の返歌を送りました。

「空蝉の羽に置く露の木隠れて忍び忍びに濡るる袖かな」

(空蝉の羽に付いた露が木に隠れて見えないように、私も密かに涙で袖を濡らしています)

 『源氏物語』では空蝉が女性の一面を見事に表現しています。次の蝉は宗教的、哲学的な例です。今は蝉の鳴き声があちこちで聞こえます。その一心不乱の鳴き声は蝉の一生が短いことを象徴しています。「蟪蛄春秋を識らず、伊虫あに朱陽の節を知らんや」という文があります。蟪蛄(けいこ、夏ぜみ)は(夏だけ生きるので)春と秋を知らない。ならば、この虫は季節の存在を知らないのだから、どうして今の朱陽(しゅよう、夏)が夏であることを知ることができるか、という意味です。親鸞が『教行信証』で曇鸞大師の『浄土論註』を引用したもので、蝉は春や秋を知らないから、夏ということも知らない、ただ春夏秋冬を知っている人間が、蝉が鳴くのは夏だというだけのことです。十声念仏することによって往生が決定するということを衆生は知りません。ただ念仏し続けて、心が別のことに移らなければ、それでよいというのが親鸞の「ただ蝉の鳴く如く念仏せよ」という主張。