私の記憶の中の夏はセミの声と重なっていた。「シャシャシャ…」、「センセンセン…」と鳴くのがクマゼミで、午前中そのクマゼミの鳴き声が妙に目立つのが今年の湾岸地域で、午後にはお馴染みのミンミンゼミやアブラゼミの鳴き声が聞こえてくる。
セミの鳴き声で思い出すのは子どもの頃の妙高のセミたち(アブラゼミ、ヒグラシ、ミンミンゼミ、ニイニイゼミ、ツクツクボウシ)の鳴き声。だが、その中にクマゼミはいなかった。ミンミンゼミとクマゼミの鳴き声は、人間の耳にはまるで違って聞こえるが、二つの鳴き声をゆっくりと再生すればミンミンゼミの鳴き声に、早く再生すればクマゼミの鳴き声になる。両種のセミの鳴き声が似ているため、クマゼミとミンミンゼミは互いに棲み分けをしているという説明も、両方が鳴いている湾岸地域では説得力がない。
クマゼミは日本では温暖な西日本を中心に分布し、東京、神奈川などの関東南部が北限とされてきた。だが、そのクマゼミが北関東や新潟県南部でも確認され、ここにも温暖化が影響しているというのが最近の説明。
地球温暖化が持続的に進行していて、それが人だけはなく、生き物すべての生活に影響を及ぼし、人は人と人以外の生き物を虐め続けている。ところが、クマゼミは温暖化に従って生息域を次第に北へと広げてきた。糸魚川辺りが今のところの北限で、妙高の山岳地域にはいないようだが、クマゼミの北限は今では福島県から宮城県辺りまで伸びているようである。
こんな話は退屈この上なく、何とも味気ないのだが、セミが蝉となれば、「空蝉」や「蝉時雨」と、途端に趣が出てくる。「手に置けば空蝉風にとびにけり」(高浜虚子)でも、蝉に変態した成虫は元気そのもの。『奥のほそ道』で芭蕉は「閑さや岩にしみ入る蝉の声」と詠んだが、その芭蕉は句集によって微妙に異なる、次の句も詠んでいる。
やがて死ぬけしきは見えず蝉の声(けしき=気色)
(すぐに死ぬという様子は見えず、(一心不乱の)蝉の声が聞こえる。)
やがて死ぬけしきも見えず蝉の声
(すぐに死ぬという素振りも見せず、(一心不乱の)蝉の声が聞こえる。)
蝉の鳴く姿を客観的に描写するか、蝉の鳴く姿に命の儚さを反映させるか、蝉の鳴く姿に蝉の気持ちを重ねるか等々、様々に解釈でき、それが短文の俳句の多義的で、それゆえ曖昧な特徴なのだと思ってしまうのは私だけではない筈である。
私の記憶の中のセミはアブラゼミで、文学的な対象とはなりにくくても、夏休みの私の生活の必須の昆虫だった。子供の頃の夏の不可欠の仲間がアブラゼミだったのである。音楽的とは言えないアブラゼミの大合唱の鳴き声は私には夏を構成する重要な音であり、生きることをもっぱら主張する声だった。
*画像はアブラゼミとミンミンゼミ