<意識経験の特権性>
私の生きる経験の具体例は私自身の生活経験を数多く挙げれば済む。だが、私が死ぬ経験の具体例を私自身の死の経験として挙げられるかと聞かれたら、仮想的な死を含めない限り、それはできないとしか答えられない。私が私自身の死を経験することはあり得ないと考えられてきたし、キリストの復活といった宗教的な事柄を想定しないのであれば、死から蘇生する、甦る、復活する人などいないことから、現在でもこれに反論があるとは思えない。だが、そのことだけから、私の死と他人の死との間に大きな違いがあると言えるのだろうか。私は私の意識していることを特権的にわかると言われてきた。「特権的にわかる」とは調査や実験を通じて確証されるのではなく、直接的、直観的に何かを媒介せずにわかってしまう、隠そうとしても隠せない形でわかってしまうことである。他人の意識内容は問わなければわからないが、自分の意識していることは自分には隠すことができない。特権性を強く意識し、それを自らの哲学の基本においたのがデカルトだった。生だけでなく死に関しても、「私」は特権的なのだろうか。私が特権的なのは生きている間の私ではないのか。死んでいく私がもつ様々な思いは、あくまでまだ生きている私の思いであり、生きている「私」の特権的な事柄でしかなく、私の死は私の推論結果としての死でしかあり得ない。すると、死に関しては「私」も他人もなんら区別はなく、共に推論によってしかわからないという意味で平等ということになるのか。平等どころか、私の死こそ他人の死からの類推に過ぎない。私は他人の死は経験できるが、私自身の死は経験できないから、私の死は経験することを欠いた推論結果ということになる。経験できなければ類推するしかない。このように考える人が多いだろう。生きて何かを意識している私はそれが何か直接にわかり、他人の意識は逆に推測しかできないが、反対に死は他人の死は見ること、経験することができるが、自分の死は見ることさえできない。
私が経験できないことは無尽蔵にある。生まれる以前の世界の経験、死後の世界の経験はできなく、そのような経験不可能なものの一つが自身の死である。それが経験できないことが大きな損失かと問われれば、答えにくいが、知ることに固執する人間の特徴が顕わになった例と考えられないこともない。
人がもつ、生きている間だけの特権が経験、特に主観的な経験である。主観的な経験の代表は自己の意識であり、それを鋭く探求し、それを基本に哲学を捉えなおしたのがデカルトだと述べたが、そこから近代的な哲学がスタートした。私は私が何を意識しているかを直接に気づくことができるが、その気づきは直接的で、推論によるものではない。気づき、意識はそれぞれawareness、consciousnessと呼ばれている。be aware ofという表現で意識していることを理解するといいだろう。意識は自分に直接にわかるもので、他人の心を推察するのとは違って、経験的なデータや推論を必要としない。その直接的な気づきにすべての事柄の信頼の基礎を見出そうとしたのがデカルトだった。そのためか、直接的、特権的であることの欠点は逆にほとんど議論にならない主題であった。自己意識の特徴として意識が直接に推論なしにわかるということは多くの欠点をもった知り方であるというのはデカルトへの反旗となるため、十分に議論されてこなかった。
気づく、わかる、知ることが直接にできてしまうと、それが正しいか否かの見極めは著しく困難になる。有無を言わせずわかることは、「わかったことが正しい」ことまではわからず、正しさの保証までは含んでいない。正しいことも直接にわかれば文句なしだが、直接にわかるのは「わかる」までであって、わかったことの真偽までは入っていない。では、それは私たちの直接的で、特権的なわかり方が不完全なわかり方だということを示唆しているのだろうか。わかったことを反省する際のわかり方は直接的ではない。自分が今赤色を見ていることを直接に意識し、知るにしても、それが本当に赤色かどうかの確認は直接的にはできない。それには経験的なデータや推論を必要とする。
特権的なら主観的である、と言ってもいいほどに、二つは結びついている。私の意識は意識であることさえ私にしかわからず、その意味で優れて主観的である。他人の意識の意識内容は私の意識の主観的なあり方ではわからない。問題はその主観的な内容を客観的にできるか否かである。主観的内容を客観的な形に翻訳することは他人にわからすためである。理想は特権的で、主観的な知識でも随時客観化ができることである。客観化の主要な道具は言語であり、話す、書く、読む、聞くことによって主観的な意識内容を言葉にすることであり、実際それが私たちの方法になってきた。
意識内容が自己と関わらない部分では公共的にわかるに越したことはないが、意志や感情が入ることによって、秘密にしておきたい部分が出てくるのも確かである。誰も自分の欲求や意図を時には秘密にしておきたいと思う。特に、誰かを好きだ、嫌いだといったことはこっそり心にしまっておきたい場合が多い。だが、特権性や主観性は意識内容に応じて手心を加えるようなことをしてくれない。内容に応じて客観的な扉が開くのであれば、それに越したことはないが、そのような芸当は意識にはできない。そのため、それに近い形を実現するために倫理的な信頼性や嘘の排除に頼っている。このような条件が付いて、言葉による意識内容の表明がこれを実現してくれる。言葉は特権的で、主観的な意識内容の客観性を回復する手段である。
<火の使用:裏と表>
自己意識の特権性は意識の主観性を刻印し、そのため懐疑論の克服といった大袈裟なことに立ち至ってしまった。「災い転じて福となす」には未だ至っていないが、同じような事柄を探してみると、思い当たるのは「火」である。
火の博物学というようなタイトルで、火の発見、火の利用、火による人類の進化等が語られてきた。火は人間にとって計り知れない役割を果たしてきた。火こそ人間と他の生き物を生物学的ではない仕方で区別する一つであり、火によって人間は動物から動物だけではないものに進化することができた。火は多くの想像や連想を生み出し、人間が自然を考え、自分を考える際に不可欠の役割を演じてきた。火はファンタジーの母胎であり、科学的探究も火への憧れを出発点にしていた。火と言語がなければ、人類は現在のように地球を支配していなかっただろう。
火による革命は社会を生み出し、科学技術は火の背後にあるエネルギー、熱、電気といった概念を通じて具体的な形を取っていった。水が果たした役割を火が果たした役割と比べてみればいい。さらに空気を加えれば、人間が知識をどのように捉え、どのように利用してきたかの見取り図が簡単に出来上がる。
火を支配し、思うままに操る術は、火に関する知識がなければできない。これは水や空気についても同じである。この知識は火を支配したい、それによって権力や富を得たいという欲望から出てくるものだが、このような欲望は通常盲目で、既存の知識を探すことは可能だが、新しい知識を生み出すことはなかなかできない。そこには知的な好奇心に基づく探求がなければならない。
肝心なのは、この二つの欲求を結びつけた点である。知的な好奇心は権力や富への渇望と一緒になることによって、現在のような科学技術に基づく世界が作り上げられた。これは理性と欲求の連動であり、理性的なコントロールが可能な形式を保っているが、実際には欲求にしたがって推移してきた。
火のもたらす不幸は、どちらかと言えば火がもたらす幸福に隠されてきた。火はヒトを人間に変えたが、変えた人間を滅ぼし、ヒトさえ絶滅させようとしている。火を使うことによるヒトの適応度(fitness)の変化はどのように計算すべきなのか。隠れている不幸はヒトの適応度に加えられたことがない。絶滅に向かわす効果を火がもっているなら、火の発見はヒトのマイナスの適応(adaptation)でしかない。
道具を使いこなすことも同じで、典型的な道具である武器は簡単に人間を殺傷することができ、場合によっては絶滅させることさえ不可能ではない。人間は人間同士が競い合うことによって進化してきた。これは性選択(sexual selection)と同じような種内だけの選択で、自然選択による進化とは微妙に違った側面を持っている。それは他の種との競争では敗れるような適応であり、性選択と似た側面を持っている。
言葉や知性の使用に関しても、考えるまでもなく、それらが多くの不幸を生み出し、欠点を数多くもっていることがわかる。言葉の乱用、誤用、知識の悪用など枚挙に暇がない。役に立つと同時に、それが悪用される理由になっている。科学的知識の悪用や転用はそのような言葉や知識の利用に基づいたもので、一括して対処できるものではない。