私たちは見るもの、聞くものを所与のもの(the given)、生の情報やデータ(raw information, raw data)と呼び、ありのままに直接受け取ると考えます。兎に角、私たちはまずそれらに気づくのです。この辺までが「客観的」と呼ばれます。気づいたものについて、それが何かを問うのは気づいた後の段階で、そこには「主観的」なものが入ってくると思われています。わかるものとそうでないものの区別はさらにもっと後になってからです。さらに後になって、「本当の自分など本当はわからないのではないか」といった自問自答が登場することになります。気づく、わかる、知る、疑う、といった果てしない繰り返しが倦むことなく続くのが私たちの主観的な心理生活。ところで、「本当の自分」と「本当はわからない」に現れる「本当」とは本当のところ何なのでしょうか。
一方、世間に対して「仮面の自分しか見せない、自分を仮面で隠す」ことに後ろめたさを覚えるのは私だけではないでしょう。ところが、直面(ひためん)と仮面の区別をするのが能です。能は面をつけて演じる仮面劇と思いがちですが、面をつけるのはシテ方だけです。顕界で生活している人であるワキ方はいつも直面で、世阿弥は『風姿花伝』で直面は面をつけるものより難しいと述べています。能の面の役割は冥界の存在の内面を分類して表現することにあり、内面を隠すのではなく、内面をパターン化して表現するためです。
「主観」と「客観」は能の仮面と直面の役割分担に微妙に関わっています。「主観的である、客観的である」の二つの状態しか意識の状態はないのかと問われれば、通常の知覚経験は主観的とも客観的とも言えない経験です。主観と客観の境界は曖昧で、それゆえ、「間主観」といった妥協・調停が考えられてきました。主観的なもの、例えば感覚知覚の経験は客観的な知識だけからなる自然科学では表現できないと信じられてきましたが、脳科学や心理学は主観的なものを解明しようと躍起になってきました。
それら科学的な追及に先んじて、能では仮面が知識によって構成された冥界の存在を表現するのに使われ、人の尋常でない心理状態を鬼や怨霊として表現してきました。それに対し、直面は日常生活での人の表情そのものです。能は科学ではありませんが、意識の状態を仮面によって分類、表現し、そして日常的な経験的意識を直面でそのまま表現している点で、主観的な意識状態を客観的に表現する演劇として人々の心を掴んできたのです。