自分以外のものがもつ意識

 休日に最愛のペットの傍で考えるのに適した疑問となれば、「自分のペットの今の気持ちは何か」ではないでしょうか。それと同じように、ネーゲルは「コウモリであるとはどのようなことか(What is it like to be a bat?)」と問い、コウモリがどのような主観的体験をもっているのかをかつて問題にしました。彼は私たちにコウモリの気持ちがわかるかと問うたのです。そして、コウモリの気持ちはコウモリについての科学的、客観主義的追求ではわからない事柄であり、(バットマンではなく、コウモリの)意識の主観的で現象的な性質は、科学的知識では説明できない、というのがネーゲルの解答でした。ネーゲルが問うのは「コウモリにとって、コウモリであるとはどのようなことか」。つまり、生物種のコウモリが、どのように世界を感じ、意識しているかというコウモリの主観的経験が問われているのです。そして、「コウモリであるとはどのようなことか」を私たちは知ることができない、というのがネーゲルの答えです。この答えはネーゲルの慧眼というより、普通の人が普通に答える(標準の保守的な)答えではないでしょうか。

 

*Nagel, Thomas."What is it like to be a bat?" The Philosophical Review LXXXIII, 4 (October 1974): 435-50. (トマス・ネーゲル著、永井均訳 「コウモリであるとはどのようなことか」第12章『コウモリであるとはどのようなことか』勁草書房 1989年、pp.258-82)

 

 では、特定のコウモリ個体Aのもつ主観的経験は別のコウモリ個体Bのそれと同じか、違うかという問いの場合はどうでしょうか。私たちは自分が気づくこと、意識することが私自身に直接にわかることだと思っており、その気づきや意識が主観的体験と呼ばれるものだと思っています。そして、直接にわかる私の意識の世界は誰にもわからない独特のものをもっていると信じています。そして、そこから人間以外の動物の心の主観的世界などわかるはずがないと信じて疑わないのです。そのような前提のもとにネーゲルに「コウモリの気持ちがわかるか」と聞かれれば、答えはほぼ自明。自分の、そして人間の、さらにはコウモリの主観的体験は?と立て続けに聞かれれば、時々わかる自分の体験以外は総じてわからないと答えることになります。

 でも、振り返ってみるなら、「主観性」が何を意味するかが曖昧なまま、話がスタートし、コウモリという生物種の話なのか、生物個体の話なのかも判然としていません。そこで、「主観的で現象的な体験」とは「感覚知覚的な個体の体験」と焦点を絞った方が適切でしょう。人間に限っても、老若男女のそれぞれの主観的体験の違いをどれだけ私たちは識別できるのか、はっきりしていません。異なる地域、異なる文化の中の主観的体験も誰も同じとは思っていません。ですから、それぞれの主観的体験はそれぞれ異なると考えたくなります。

  そこで、個体ではなく種を基本に考えてみましょう。コウモリと私たちとの知覚の仕組みの違いから両者の知覚体験の違いが科学的に導出でき、それが進化の結果であると解釈できます。私たちとコウモリは異なる系統を辿り、異なる知覚体験をするように進化してきました。そのことから、私たちとコウモリはお互いを自分の体験をわかるような仕方ではわかり合えない、ということが推論できそうです。ですから、進化の結果、私たちとコウモリは異なる知覚体験をもち、異なる生活形態をもつようになったと推測できます。ヒトの知覚体験はヒトにだけ直接わかるという意味で主観的です。進化は個々の生物種に固有な形質を生み出してきました。その固有な形質は「種に関して主観的」です。ですから、私たちはコウモリの知覚体験を擬似的にしか体験できないことになります。