「現在(present)」とは言わずと知れた「今(now)」のことだと誰もが言うが、その「今」はわかったようでわからない不思議概念の一つ。「今」は今でしかなく、一瞬でしかないと思われていて、一瞬の出来事と言えば、夏なら流れ星や花火が思い浮かぶ。つまり、「今」は主観的な感じなのである。
「今」も「一瞬」も文字通りの瞬間かと問われると、これまた答えに窮する。流れ星も花火も長さのない瞬間にだけ存在するのではなく、ある一定の間起こり続ける現象だということを認めないと、目撃することも楽しむこともできない。だから、「今」も「一瞬」も文字通りの瞬間、瞬時ではないと考えざるを得ないことになる。持続しない瞬間など私たちには経験できないのである。もちろん、「持続する瞬間」は矛盾をはらむ概念として表立っては使わないが、「一瞬の出来事」といった表現は無矛盾であるかの如くによく使われる。しかも、その表現を単なる比喩ではなく、実質的な意味を込めて使うのである。例えば、梅雨は長く持続する現象だが、交通事故は一瞬の出来事なのである。
亀倉雄策の東京五輪のポスターを例にして考えてみよう。亀倉は1915年4月6日新潟県西蒲原郡吉田町(現在の燕市)生まれ。連写機能のない当時のカメラは1回のチャンスに1枚しか撮影できなかった。シャッターを切るタイミングが合わず、日没から約3時間行われた撮影で、30回以上のスタートダッシュが繰り返された。その結果、選びだされたのが、上の「一瞬のショット」。私たちの知覚の今とシャッターの瞬間が重なった一瞬が亀倉のポスターの凄さで、スタートダッシュの画像に「今」や「現在」という名札を見事につけることに成功している。
「現在」が正確に何時から何時までかなど誰にもわからず、「現在の状況」や「現在の問題」がうまく処理できれば、それでよいというのが普通の人の普通の考えで、わからないことはない。実際、「現在」がわからないなどということはなく、皆わかっていると思っている。それは、私たちが現在形の文を自在に使えるからである。時間はTime、時制はTenseで、それぞれ異なるということになっている。だが、何がどのように異なるかとなると、形式的な返答はできても、実のところは何もわかっていない。その形式的返答とは次のようなものである。時間は物理的なもの、時制は言語的なものであり、レベルが異なり、混同など起こらないように見える。時間的な過去は過去形という時制で、現在は現在形、未来は未来形という時制でそれぞれ表現される。だから、時間と時制の間には対応関係があり、過去は過去形、現在は現在形、未来は未来形に対応している。
現在が幾何学の点のようなものだと思いたい私たちは「点」の概念を再度確認することになるのだが、その結果、唖然として立ちすくむことになる。数学的な対象としての点にはサイズがなく、現在が点だと解釈すると、現在はどこにも実在しなくなってしまう。点が物理的に実在するにはサイズが必要だが、点がサイズをもつと数学的に矛盾することになる。その点はデカルト以来実数で表現され、対象の状態変化が関数的に理解されてきた。そんな点や実数を使って「現在」を解釈するのはおかしいのかも知れないが、今のところそれ以外の解釈の仕方を私たちは知らないのである。
「現在の問題」と言えば、政治や経済の問題が誰の頭にも浮かぶ。だが、いつまで現在かと言われると困ってしまう。「何時から何時までが現在か」という問いに成程と思わせる解答は見たことがないし、見つかるとも思えない。昨日は現在ではないし、明日も現在ではない。「瞬間」の長さを問うなら、きっと嫌がられるだろう。誰もうまく答えられない。瞬間を点と解釈し、一つの実数を対応させた解釈は数学的に見事だったが、知覚レベルでの瞬間にはまるで当てはまらなかったのである。
数学的な解釈は大抵うまく行くものなのだが、時間に関してはうまく行かない。うまく行かないことが時間を一層神秘的なものにし、哲学者がここぞとばかりに飛びつくような対象にしてしまったのかも知れない。大袈裟にまとめれば、時間が哲学的なのは点の解釈が何とも歯痒いくらいにうまく行かないからに過ぎない。歴史や因果連関に比べれば、時間が格段に哲学的な事柄だということはない。
人は「現在」がわかるという幻想のもとで、自分たちには伝統的な歴史があり、夢ある未来があると勝手に思っている。人は時間に対して実に楽観的で、その無垢さには脱帽である。「現在」を知らずして過去も未来もわかる筈がない、という常識のもとでは人は全くの赤子ということになる。ということは、「現在」はそれほど重要ではないのかも知れない。
恥ずかしいほどに、人は未だに「現在」が何かを知らない。現在起こっている事柄を経験し、それに対応するのだが、その「現在」とは何かをうまく理解できないままなのである。奇々怪々のことだが、現在起こっていることを経験できるが、その現在を適確に経験するとはどのようなことかわからないのである。
「今」や「現在」が状況にトータルに依存する理由は、私たちの感覚、知覚のもつ特徴、つまり身体的な特徴なのである。それは相対的、状況依存的であり、つまりは主観的なのである。それに対して、計器による測定は客観的であり、その二つが見事に重なると私たちは「今」を共通体験することになる。いずれであれ、「今」や「現在」は私たちが今や現在に体験する内容に依存した名札(タグ)のようなもので、私たちの主観的意識がその名札を気にするからといって、内容に変化が起こる訳ではない。
こうして、「今」や「現在」が具体例、つまりは状況に依存する場合の集まったものを指す名札で、これまで主観的なものというレッテルを張ってきたものの一部である。「今」や「現在」は例示しかできないが、それゆえ、(間主観的ではなく)例示主観的とでも呼べるものであり、folk conceptとしての「今」、「現在」の大きな特徴となっている。