時間の変化(4)

塊状モデルと現在主義
 塊状モデルは時空のすべての点に対して同等の存在論的な身分を与えるモデルである。これを文字通りに理解すれば、ダイナミックな時間像は物理的な実在とは関係なく、人間がつくり出したイメージということになる。この見解では時間の流れは人間が心理的視点をもつことから生じる心理的なトリックに過ぎなく、実在するのは時空連続体の全体である。では、塊状宇宙(Block Universe)に時制はないのか。ノートに平面座標を書き、そこに鉛筆で位置の変化を時間軸に従って記すとき、私たちの経験する時間の一部を使っているのではないのか。確かに、任意の時点を「現在」に見立て、時間単位の長さを自由に選ぶという二点から、実際に経験される時間とは違うが、鉛筆の運動の表現に「動く時間」が暗黙の内に使われているのではないのか。だが、その使われ方は認識とその表現レベルのもので、鉛筆の動きそのものや動き方がどうであれ、記された筆跡に違いはない。描き方は多様でも、描かれた結果は同じである。塊状宇宙はいわば描かれた結果だけからなっている。それゆえ、「動く時間」は塊状宇宙にはない。
 この塊状宇宙の考えと対照的なのが時間の現在主義である。実在するのは現在だけであるという現在主義の主張は上述の塊状宇宙の見解とは明らかに対立している。そこで、二つの見解を比較検討してみよう。二つの見解は極めて異なる立脚点に基づいている。現在主義は主観的な経験である「今」を拠り所にするのに対し、塊状宇宙説は直接経験できない数学的モデルを基礎に置いている。

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ブロック宇宙のイメージ、Block Universeより


 現在主義者は現在の経験だけが存在し、それが他に還元することのできない変化の基本性質だと考える。だが、塊状宇宙論はこの主観的直観がうまく説明できないと批判する。現在主義によれば、時制が何を意味しているかを説明する唯一の方法は「今」が唯一存在している時間であることを主張することによってなされる。過去のものは「今」から過ぎ去り、未来のものは「今」が変化していくに過ぎない、過去や未来のすべての瞬間を含む客観的な時間についての話は誤りでしかない。時制をもつ事実はそれ自体が時制的でなければならず、時制のない解釈は誤っているというのが現在主義の本質的な主張である。つまり、現在主義は時制主義を含意している。「関が原の合戦は既に起こった」を「関が原の合戦はこの言明より以前である」という時制のない表現に翻訳することはできない。日本語や英語は時制なしに存在するものを描くことができなく、そのため現在時制は文字通り言語的な形式である。私たちの言語が時制なしに話すことを許さないなら、これは自然であろう。だが、忘れてならないのは、時制をもつ文が時制なしの文に翻訳された後でも、時制のある文がもっていた外部世界についての情報を何も削らないことである。
 現在主義の代表者であるプライアー(A.N. Prior)は塊状宇宙を過去と未来が今存在している宇宙であると考えた。そして、そこから塊状宇宙は決定論的だと主張した。だが、今ある過去と未来という主張は現在主義のドグマの中で塊状宇宙を理解することであり、公平な理解でないことは明らかである。時空理論は過去と未来の現在の存在について時制を含んだ言明をしているのではない。スマート(J.J.C. Smart) は「未来の出来事がある」と言うとき、それが今あることを意味していないと述べている。
 塊状宇宙では時制は主観的領域へ追い遣られる。塊状モデルはあくまでモデルであるが、モデルとして公共的に表示可能でなければならない。塊状モデルは観察者がそのような形状を実際に観察するわけではないことから、時空が実際に塊状であることを含意していない。私たちは塊状宇宙を映画の各スライドのように想像するが、そこから決定論や異なる時刻の時間的な共在が導き出されるわけではない。塊状宇宙が主張するのは時間の輪切りが空間のそれのように互いに関係し、その関係を表現することが可能であるというだけである。塊状宇宙としての世界という見解は決定論も運命論も含意していない。それは決定論とも非決定論とも両立する。
 塊状モデルが客観的な実在と関係がないということは現在主義が問題と考える点である。 現在主義は3次元の世界と変化や生成を仮定するが、変化の本性については説明しない。それは生の事実(given)として仮定される。現在主義が基礎をおく主観的な直観は説明が必要なものである。プライアーはこの主観的直観に訴えることによって、「よかった。それは済んだ。(Thank goodness it’s over.)」という表現が塊状モデルでは説明できないと考えた。つまり、この表現を「よかった。あの最後の部分はこの発言より以前である。」に翻訳はできないと考えた。次の例と比べてみよう。

「この果物は苦い。」
「この果物の構造の化学的要素はx、y、zの性質をもち、人の舌にp、q、rという性質を引き起こす」

前の文のより客観的な分析が二番目の文かもしれないが、それが話者の意図をより客観的に捉えているわけではない。後者は前者の客観的妥当性を説明しているだけである。だが、それは誤った翻訳ではない。