私たちは見るもの、聞くものを所与のもの(the given)、生の情報やデータ(raw information, raw data)として、まずはそのまま直接に受け取る。兎に角、まずはそれらに気づくのである。気づいたものについて疑うのは受け入れた後である。わかるものとわからないものの区別はさらにもっと後になってからである。「見えている恋人は本当の恋人か」を恋人を見た後で疑い、さらにずっと後になって、「本当の自分など本当はわからないのではないか」といった哲学的な自問自答が登場する。気づく、わかる、知る、疑うの果てしない繰り返しが倦むことなく続くのが私たちの日常生活。ところで、「本当の自分」と「本当はわからない」に現れる「本当」とは本当のところ何なのだろうか。本当のところ、よくわかっていないのではないか。
一方、世間に対して「仮面の自分しか見せない」ことに後ろめたさを覚えるのは私だけではないだろう。仮装と仮面となればベネチアのカーニバルが思い浮かぶが、直面(ひためん)と仮面の区別など本当はなく、直面も仮面の一つだというのが能の見方。能は面をつけて演じる仮面劇と思いがちだが、面をつけるのはシテ方だけ(例えば、能「紅葉狩」では、シテ方は皆面をつけているが、ワキ方は直面)。さらに、面をつけないで演じる曲もあり、それが直面。世阿弥は『風姿花伝』で直面は面をつけるものより難しいと述べている。
「主観」と「客観」は直面と仮面に似ている。二つの対立を前提にした議論が哲学では習慣的に行われてきた。「主観的である、客観的である」の二つの状態しか意識の状態はないのかと問われれば、通常の知覚経験は主観的とも客観的とも意識されない経験である。主観と客観の境界は実はとても曖昧で、それゆえ、「間主観」といった妥協・調停が考えられてきた。主観的なもの、例えば感覚知覚の経験は客観的な知識だけからなる自然科学では表現できず、それゆえ理解できないと信じられてきたが、20世紀に入り、脳科学や心理学は主観的なものを解明しようと躍起になってきた。直面が仮面の一つであるように、主観性も客観的に解明されるべき対象の一つと捉えられるようになってきた。「意識が「主観的」」なのは意識をもつ人の主観的な判断に過ぎないのである。
能では、仮面とは知識によって構成された人格、つまり理論的人格であり、直面はあくまでそれに準じたもので、分類化された人格の一つに過ぎない。客観性が知識の特徴であるのに対し、直接的な知覚経験は主観的と決めつけられてきたが、知覚経験の仕組みも志向的内容も共に客観的に(科学的に)説明され始めている。能は科学ではないが、意識の状態を仮面、そして直面で表現している点で、主観性の客観的な表現を演劇として遥か昔に見事に実現していた。直面も仮面も心理状態、意識状態の分類であり、私たちの心を代表するものとして類型化されている。