赤い実の「赤」(2)

<第二性質>

 「私たちが住む物理的世界は数学によって表現でき、信頼可能な説明や予測ができる」ことを科学革命の目標とし、その実現をスタートさせたのがガリレオ・ガリレイ。数学が嫌いな人は物理学も嫌いだといった風評を生み出したのもガレリオ。ガリレオの研究スタイルを嫌いな人が結構いるが、科学はこの1世紀の間に大きく変わり、言語が数学的であるゆえに、数学が使える範囲は拡大し、扱えないと思われていた感覚などが科学的に解明されてきた。
 17世紀前半に活躍したガリレオは数学的な理論と実証的な実験という二本立てを駆使することによって、物体の落下法則を発見した。「数学の言葉で書かれる自然」という表現は、彼の数学的自然観を見事に示し、それが物体の「第一性質」と「第二性質」の区別にもつながっている(「第二性質」という用語は哲学者ロックが後に使って有名になった用語)。「大きさ、形、数、運動の速さ」などが第一性質。これらは物質がもっている実在的な性質であるが、味、匂い、色彩などは物体がもっている性質ではなく、それらを感覚する人間がつくり出す性質だとガリレオは考えた。これは、数学的に表現可能な性質を第一性質、そうでないものを第二性質としたのではないかとも推測できる。
 ガリレオの時代、味、匂い、色彩などは数学的に表現できる見通しなど立っていなかった。その際の典型的な謂い回しが、「量」的な性質と「質」的な性質の違いという表現。ガリレオは自然界を「量」と「質」に分け、質的なものを主観的な領域に押しやり、自然界を探究するには量に対する数学の適用で十分と考えたのではないか(ずっと後のヘーゲルは量や質を駆使した弁証法のレトリックを思いつく)。
 さて、このようなガリレオの考えを強烈に批判したのがフッサール。学問が実証主義的になると、真理は客観的に確定できるものに限られ、そのため「生(生活)」が排除されてしまうことになる。生を排除した学問は世界の中で生きる人間に対してその生の意味を解明できなくなる。ガリレオは科学から私たちの生を奪い取り、そこに新しい科学をつくった。ガレリオは自然を書物と見なし、それは「数学の言語」で書かれていると考えた。「書物」としての自然は、数学の言語で表現できる量的自然であり、それを数学的文法によって読み解いた成果が力学なのである。

 被虐的なフッサールによれば、赤い実の赤を感じる経験はガリレオ的科学から拒否されたことになるのだが、そのフッサールの悲観的予測とは裏腹に、感覚的な赤の追求は抹殺されずに解明されてきた。つまり、ガリレオの第二性質の多くは科学の対象として除外などされなかったのだ。

f:id:huukyou:20201128051315j:plain

ピラカンサ

f:id:huukyou:20201128051348j:plain

ハクサンボク

f:id:huukyou:20201128051416j:plain

ミヤマシキミ

f:id:huukyou:20201128051441j:plain

センリョウ