修那羅大天武

 妙高おこしとなると、上杉謙信児雷也、熊坂長範、紅葉狩りの鬼たち、そして、修那羅大天武というのが私の見立てる主な候補たちである。上杉謙信と修那羅大天武は顕界の、他は冥界の存在である。謙信も大天武も超人という点では冥顕の両方の存在とも思われてきた。上越市の謙信に対して、妙高市は大天武と見えを切ってみよう。

 Club Myokoのメンバーの池田さんから『妙高村史』第4節庶民信仰の「四こうしん講の祭神とその信仰」(池田一男、pp.946-50)のコピーをいただき、大鹿での修那羅山大天武の人間像を垣間見ることができた。池田一男氏の本文はとても分かりやすい。この他に、現在Webで簡単に分かる長野側の情報の一部は次の通り。

・長野県筑北(ちくほく)村ホームページ:修那羅山(しゅならさん/しょならさん) 安宮神社・修那羅石仏群、筑北村のPRキャラクター(修那羅大天武と猫神様になりたいネコ)

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また、関連文献三つを挙げておく。

・南湖峯夫『大天武一代記』、中央公論事業出版、1983

・たくきよしみつ(鐸木能光)『神の鑿─高遠石工・小松利平の生涯』(小説)

・吉池みどり「異空間 修那羅峠の石神仏」環千曲川地域の人と文化、垂氷、2018、第29号、NPO法人上田図書館倶楽部

 さらに、Webで「妙高かるた 絵札・読み札・お宝の解説」と検索すると、妙高かるたがすべて読める。その中で、「お」と「め」に注目してほしい。

 

 朝日新聞デジタルの「純朴な石神仏800基並ぶ修那羅山 鳥居の先に広がるパワースポット」という記事に、妙高市出身の修験者修那羅大天武が創建した安宮神社と石神仏群が紹介されていた。そこで、少し調べてみると、次のようなことがわかった。

 修那羅峠(しゅなら峠、しょなら峠)は長野県小県郡青木村田沢と東筑摩郡筑北村坂井の境にある峠で、かつては「安坂峠」と呼ばれていた。だが、修那羅大天武が広く庶民の信仰を集めたことによって、修那羅様への参道として、「修那羅峠」と呼ばれるようになった。その峠に地元の人が「ショナラさま」と呼ぶ「修那羅山安宮(やすみや)神社」がある。修那羅大天武という修験行者が江戸時代末期の安政年間に、土地の人に請われ、雨乞いの法を修して信頼を得て、古くから鎮座する大国主命の社殿を修し、安宮神社の開祖となる。修那羅大天武は全国の霊場を巡って長年修行し、この地で弟子たちとともに更なる修行を積み、人々の信仰を集めた。没後、彼を開祖とする現在の安宮神社が生まれた。

 修那羅大天武は1795(寛政7)年、現在の新潟県妙高市大鹿に生まれ、60年間に渡り全国各地で修行。本名は望月留次郎。1882(明治5)年に現在の長野市篠ノ井で78年間の生涯を閉じた。9歳で天狗に従って家を出て、名山・神社仏閣を巡って修行を重ね、この間に学問は豊前坊という岳天狗に習い、越後の三尺坊からは不動三味の法力を授けられ、霊験を身につけた。信濃の地で弟子や信者たちと修行を行い、各地から人々が集まる。村人たちは、願いをかなえてもらったお礼に手づくりの石仏・石神を奉納し、その熱い信仰と感謝の気持ちが積もり積もって800余体となった。偉人というより、超人と呼びたくなる異能者修那羅大天武について、こだわって考えてみよう。

 大天武は全国各地の修験場を巡り、修業を重ねた。妙義山秩父三峯山、相州大山、鳳来寺山豊前彦山神社、加賀白山、越中立山佐渡金鳳山など、各地の名山、神社仏閣を巡り、霊験を身につけた。「蔵王堂十二坊の内三尺坊について不動三昧の法を学び17日に八千枚、八千度の宗法をなせしに、(中略)あたかも飛行自在の神通を得たるものに似た(『大天武一代記』南湖峯夫、中央公論事業出版、1983)」と述べられている。蔵王堂の三尺坊は秋葉山にも現れ、現在秋葉寺三尺坊大権現として祀られている。大天武が再び信州筑摩郡に入ったのは1830(天保元)年頃で、天保3年には安坂村に移っている。その後、筑北地方の各地で修行を重ねる。大天武の秘法は「筆神楽」とよぶ占いで、過去現在、未来をことごとく占い当てると広まり、善光寺平、小県、松木方面からも人々が集まるようになる。1855(安政2)年この地方が旱魃(かんばつ)に襲われた際、雨乞いの修法を乞うため、近隣の村人たちが峠に登ってきた。修那羅大天武がこれを受けて、修法を行うと雨が降った。やがて、霊験あらたかな加持祈祷ということで、信濃国の各地から人々が集まる。いつしか峠に行く道を「ショナラさん」へ行く道と、安坂峠は修那羅峠と呼ばれるようになる。村人たちは、願いをかなえてもらったお礼に手づくりの石仏・石神を奉納した。その熱い信仰と感謝の気持ちが積もり積もって800余体となり、その特異性と率直さからわが国の民間信仰の縮図を具体的に示している。その一つが長野県出身の佐久間象山が奉納したとされる千手観音で、松代藩の石工によって彫られ、ひと際目立っている。

 1860(万延元)年には船窪山に上り、ここに定住する。その間、筆神楽による占いや祈祷により多くの村人を救っている。明治5年9月17日滞在先である長野市篠ノ井塩崎の信徒堤源八郎宅で亡くなる(享年78歳)。その遺言により、修那羅大天武命と命名され、舟窪社(現安宮神社)に大国主命と共に合祀されている。

*この略伝を字面通りに信じる読者はいないだろうが、では何をどこまで信じてよいのか問われると、これを書いた私自身困ってしまう。戦後生まれの私は祖母と共に何度も新井の街中の祈祷師の家に行ったのを憶えている。残念ながら、祖母が何を願ったのか不明だが、意外に穏やかな女性の祈祷師だった。戦後になっても祈祷師が私の身近にいたことを考えると、夜明け前の信州や越後に修験者や祈祷師が実在し、明治政府の「神仏判然令」が出る苦難の時代を生き延びたというのも事実である。

 修那羅大天武の主な資料は信州のもので、それも今の多くの人には信じがたいもの。彼の生まれ故郷である妙高市の大鹿では、「大鹿庚申堂(こうしんどう)清水」の名前で、名水として多くの人に知られている。有名になった清水近くの鳥居の脇には標柱が立てられていて、そこには「安宮神社参道入り口」と記されている。庚申堂は庚申信仰に基づいて建立された仏堂で、しめ縄が張られた大鹿庚申堂の境内から清水が湧出している。

 そんな時に突如思い出したのが「妙高かるた」で、妙高村周辺の歴史や自然をかるたとして子供用にまとめたものである。かるたの札は「お」で、「大鹿出身 神様になった しょならさん」とあり、「筆神楽」と呼ばれる占いによって信州の人々を助けたことが表現されている。説明文は「修那羅さん:大鹿に「安宮神社祭神誕生の地」と称する里宮がある。修那羅さんは江戸時代の寛政7年(1795)に大鹿で生まれ、9才頃に家を出て全国各地を修業し、霊験を得て安宮神社の祭神となった。…(省略)」となっています。このかるたの説明は私がこれまで書いてきたこととある程度符合している。

 大鹿では大鹿庚申堂が「安宮神社」とも呼ばれていて、修験道庚申信仰が結びついていたことが窺えるが、修那羅山安宮神社から分祀されたものと思われる。

 明治5年9月17日に大天武は更級郡塩崎村(現長野市篠ノ井)で客死するが、その遺言により、門弟信徒の手で舟窪社に大国主命と共に合祀され、改めて修那羅大天武命と命名された。神社の縁起によれば、戦国時代の頃から祭神大国主命を祀る小祠として始まったが、大天武がここに定住して社殿を造り、舟窪山にあることから、舟窪社と名付けられ、さらに明治35年に修那羅山安宮神社に改められた。安宮神社の境内には、現在800を超す石造の神仏が残されている。江戸時代に寺院は本山末寺関係を強制され、僧侶たちは日常生活に至るまで規制を受けた。一方、人々が寺の檀家となる檀家制度が形作られ、僧侶は経済面では檀家制度で保証され、もっぱら葬式や法事などのお布施収入に依存することになり、それが現代まで続く。そのため、人々の信仰を助け、精神面の支えや、人生の苦悩、死の問題などを解決する本来の仕事ができなくなってしまう。その中で当時の人々が救いを求めたのが流行神(はやりがみ)や、江戸時代の末から盛んになる教祖信仰で、それを実行、実践したのが修験者や行者と呼ばれる人たちだった。

 修験者や行者は悩む人々に対して卜占(ぼくせん)や祈祷によって、災厄の除去を行った。そのため、祈りや修法に応える神々が創造された。そして、祟りを与える諸神霊や動物霊はすべて大日如来に包含され、大日如来はその働きを不動明王に委ねていることから、不動明王はあらゆる災厄を取り除くことができるとされ、その信仰が広まった。修那羅大天武が越後の三尺坊から法力を授けられ、霊験を身につけたという言い伝えは、こうした不動明王の霊力の存在を暗示している。

 修那羅大天武の教えが伝わり、独特の土俗信仰が生まれていったのが霊諍山(れいじょうざん)。千曲市の「霊諍山の石仏」は有名で、百体以上の石仏がある。その開祖は北川原権兵衛。彼は信者が増えるに連れ、山上の神を衛る人が必要と考え、親類の和田辰五郎に依頼する。辰五郎は修那羅の高弟の一人だった。修那羅大天武の死は明治5年、そのころ権兵衛は7才、辰五郎は40代の後半。霊諍山の石神仏の中には、権兵衛の開山以前の作があることから、辰五郎が権兵衛に招かれたとき、それらを持ち込んだものと考えられる。霊諍山は修那羅山安宮神社と同じく大国主命を祀り、石神仏の種類や様式からも修那羅山とよく似ていて、修那羅山と霊諍山の混淆が見られる。

 民俗信仰などとは無縁の筈の佐久間象山(1811―1864)は1854年から1862年まで吉田松陰の密航事件で松代に蟄居を命じられている。筑北村と松代はそれ程離れておらず、ひょっとすると、大天武と象山は知り合いだったとも想像できる。しかし、二人はまるで好対照の生き方、考え方をしていて、水と油のように見える。残念ながら、これまでのところ、二人の関係は不明である。松代藩佐久間象山は早くから開国と公武合体を主張し、吉田松陰坂本龍馬に西洋技術の摂取を勧めていたが、京都で攘夷派に暗殺される。「東洋の道徳、西洋の芸(技)術」は象山の最も有名なスローガン。蟄居の身となった象山だが、松代には象山を訪ねて松蔭の弟子である高杉晋作久坂玄瑞が面会に訪れている。1913(大正2)年の象山殉難五十年祭を機に神社建立が計画され、1938年(昭和13年)に創建されたのが象山神社佐久間象山の名は一般的に「しょうざん」と読まれるが、長野では山の名前から「ぞうざん」と呼び習わされていて、神社も「ぞうざん」神社。

 何とも好対照の二人だが、象山が松代に蟄居し、日本の将来を分析し、考察している頃、近くで修那羅大天武が生活する庶民の安寧を求めて祈っていた。この二人の生き様の違いだけでも驚嘆すべき奇跡のように思える。

*修那羅大天武は既に長野県筑北村の観光の重要な一つになっている。一方、妙高市ではこれといった言及がない。

筑北村観光情報(https://www.vill.chikuhoku.lg.jp/kanko/docs/yasumiya.html

修那羅山安宮神社・修那羅石神仏群

*修那羅山安宮神社のホームページ、Facebook等も参照