信州での大天武

 江戸時代末、長野県小県郡青木村田沢と東筑摩郡筑北村坂井(旧:坂井村)の境にある安坂峠付近に修那羅大天武と名乗る行者が弟子や信者たちと行場を作り、修行を行うようになりました。大天武の秘法は「筆神楽」という占いで、過去、現在、未来を正しく占うと広まり、善光寺平、小県、松木方面からも人々が集まるようになりました。1855(安政2)年この地域は早魅(かんばつ)に襲われます。峠の麓の農民たち、安坂と室賀(現上田市)の300人以上の人々が峠に集まり、大天武に雨乞いの修法を願い、彼が降雨の修法を行うと雨が降り始めたのです。『修那羅大天武一代記』によれば、その霊験あらたかな加持祈祷から、人々は大天武を光聖菩薩、法重上人などと呼び崇めました。峠に行く道は修那羅様へ行く道と変わり、安坂峠は修那羅峠と呼ばれるようになりました。大天武は1860(万延元)年から峠のある舟窪(ふなくぼ)山の小祠を改修し、そこに住み着きました。

 明治5年9月17日に大天武は更級郡塩崎村(現長野市篠ノ井)で客死しますが、その遺言により、門弟信徒の手で舟窪社に大国主命と共に合祀され、改めて修那羅大天武命と命名されました。神社の縁起によれば、戦国時代の頃から祭神大国主命を祀る小祠として始まりましたが、大天武がここに定住して社殿を造り、舟窪山にあることから、舟窪社と名付けられ、さらに明治35年から修那羅山安宮神社に改められました。

 安宮神社の境内には、現在800を超す石造の神仏が残されています。江戸時代に寺院は本山末寺関係を強制され、僧侶たちは日常生活に至るまで規制を受けました。一方、人々が寺の檀家となる檀家制度が形作られ、僧侶は経済面においては檀家制度で保証され、もっぱら葬式や法事などのお布施収入に依存することになり、それが現代まで続くことになりました。そのため、人々の信仰を助け、精神面の支えや、人生の苦悩、死の問題などを解決する本来の仕事ができなくなってしまいました。その中で当時の人々が救いを求めたのが流行神(はやりがみ)や、江戸時代の末から盛んになる教祖信仰で、それを実行、実践したのが修験者や行者と呼ばれる人たちでした。

 修験者や行者は悩む人々に対して卜占(ぼくせん)や祈祷によって、災厄の除去を行いました。そのため、祈りや修法に応える神々が創造されました。そして、祟りを与える諸神霊や動物霊はすべて大日如来に包含され、大日如来はその働きを不動明王に委ねていることから、不動明王はあらゆる災厄を取り除くことができるとされ、その信仰が広まりました。修那羅大天武が越後の三尺坊から法力を授けられ、霊験を身につけたという言い伝えは、こうした不動明王の霊力の存在を暗示しています。

 修那羅の教えが伝わり、独特の土俗信仰が生まれていったのが霊諍山(れいじょうざん)です。千曲市の「霊諍山の石仏」として有名で、百体以上の石仏があるのが霊靜山で、その開祖は北川原権兵衛。彼は信者が増えるに連れ、山上の神を衛る人が必要と考え、親類の和田辰五郎に依頼します。辰五郎は修那羅の高弟の一人でした。修那羅大天武の死は明治5年、そのころ権兵衛は7才、辰五郎は40代の後半でした。霊諍山の石神仏の中には、権兵衛の開山以前の作があることから、辰五郎が権兵衛に招かれたときそれらを持ち込んだものと考えられます。霊諍山は修那羅山安宮神社と同じく大国主命を祀り、石神仏の種類や様式からも修那羅山とよく似ていて、修那羅山と霊諍山の混淆が見られます。