修那羅大天武略伝

 大天武は1795(寛政7)年、新潟県頚城郡妙高村大鹿(現妙高市大鹿)で望月政右衛門の子として生まれ、留次郎と名付けられました。幼少の頃より異才を発揮し、村人は役行者の再生か三尺坊の生まれ変わりか、はたまた天狗の子孫だろうかと噂し合いました。1795(享和11)年、9歳の時に天狗に従って家を出て、全国各地の修験場を巡り、修業を重ねました。妙義山秩父三峯山、相州大山、鳳来寺山豊前彦山神社、加賀白山、越中立山佐渡金鳳山など、各地の名山、神社仏閣を巡って修行を重ね、この間に学問は豊前坊という岳天狗に習い、越後の三尺坊からは不動三味の法力を授けられて、霊験を身に付けました。「蔵王堂十二坊の内三尺坊について不動三昧の法を学び17日に八千枚、八千度の宗法をなせしに、(中略)あたかも飛行自在の神通を得たるものに似た(『大天武一代記』南湖峯夫、中央公論事業出版、1983)」と述べられています。蔵王堂の三尺坊は秋葉山にも現れ、現在秋葉寺三尺坊大権現として祀られています。この三尺坊は777(宝亀9)年に信州で生まれ、幼名周国(かねくに)と云い、27歳の時越後蔵王堂において不動三昧の秘宝を行い、17日間で八千度執行したところ、鳥形両翼の霊相に現化し、飛行自在の神通力を得ます。秋葉山の三尺坊と大天武はその様相が驚くほど似ているのです。でも、秋葉山の三尺坊と大天武の師匠である三尺坊は現れた時代が全く異なるので当然同一人物ではありません。時代を超越して現れたのかどうか、それは謎です。

 大天武が再び信州筑摩郡に入ったのは1830(天保元)年頃で、天保3年には安坂村に移っています。その後、筑北地方の各地で修行を重ねます。大天武の秘法は「筆神楽」とよぶ占いで、過去現在、未来をことごとく占い当てると広まり、善光寺平、小県、松木方面からも人々が集まるようになりました。1855(安政2)年この地方が旱魃(かんばつ)に襲われた際に、雨乞いの修法を乞うため、近隣の村人たちが峠に登ってきました。修那羅大天武はこれを受けて修法を行うと雨が降ったのです。やがて、霊験あらたかな加持祈祷ということで、信濃国の各地から人々が集まることとなりました。いつしか峠に行く道を「ショナラさん」へ行く道と、安坂峠は修那羅峠と呼ばれるようになります。村人たちは、願いをかなえてもらったお礼に手づくりの石仏・石神を奉納しました。その熱い信仰と感謝の気持ちが積もり積もって800余体となり、その特異性と率直さからわが国の民間信仰の縮図を具体的に示しています。その一つが長野県出身の佐久間象山が奉納したとされる千手観音で、松代藩の石工によって彫ら、ひと際目立っています。

 1860(万延元)年には船窪山に上り、弟子と共に土を均し土屋築き、荊棘を刈り神苑拓き、社殿を修め、かつ二千八百余の末社を勧請し、ここに定住します。その間、筆神楽による占いや祈祷により多くの村人を救っています。明治5年9月17日滞在先である長野市篠ノ井塩崎の信徒堤源八郎宅で亡くなります(享年78歳)。その遺言により、修那羅大天武命と命名され、舟窪社(現安宮神社)に大国主命と共に合祀されています。

*この略伝を字面通りに信じる読者はいないでしょうが、では何をどこまで信じてよいのか問われると、これを書いた私自身困ってしまいます。戦後生まれの私は祖母と共に何度も新井の街中の祈祷師の家に行ったのを憶えています。残念ながら、祖母が何を願ったのかわかりませんが、意外に穏やかな女性の祈祷師でした。戦後の時代でも祈祷師が私の身近にいたことを考えると、夜明け前の信州や越後に修験者や祈祷師が実在し、明治政府の「神仏判然令」が出る苦難の時代を生き延びたというのも事実です。