以前新井小学校の校歌の作詞者、作曲者について書いた(巽聖歌作詞、信時潔作曲、巽は「たきび」の作詞、信時は「海ゆかば」の作曲で有名である)が、私が知るだけでも「この人が」という人が作詞や作曲をしている。その一人が堀口大學で、文化勲章受章の詩人。
大學は明治25年、東大近くで生まれ、「大學」と名付けられた。父が外交官として朝鮮に単身赴任したため、父母の故郷長岡に移り住む。旧制長岡中学卒業後、上京し、与謝野鉄幹の主宰する「新詩社」に入門。新詩社で知遇を得た佐藤春夫と共に慶應義塾大学文学部に入学。昭和20年7月、妙高市関川にある妻マサノの実家、畑井家に疎開。天然記念物の大杉がある関川天神社近くが大學疎開の地である。天神社の森近く、背後に妙高山を望む妙高高原南小学校(当時は妙高南小学校)がある。地域の人々の要望でその校歌を作詞し、その歌碑が今も残っている。大學一家は、その後、関川から高田の南城町に移り住み、4年ほど過ごしている。
関川児童の歌
(一番)
越後信濃の国ざかい
瀬の音絶えぬ関川の
清き流れに名にし負う
歴史にしるき関所あと
(二番)
姿凛々しき妙高の
高根の風を身に受けて
われらこの地に生まれいで
爽けき中に人となる
(三番)
匂うばかりの雪晴れの
あしたの空のけざやかさ
天は瑠璃色 地は真白
われらが行くて祝うとや
さらに、妙高高原北小学校の校歌の作詞は画家の小杉放菴。1945年5月、太平洋戦争における空襲で、放菴の田端の家は焼けてしまい、同じ年の3月から妙高高原新赤倉の「安明荘(あんめいそう)」と名付けた別荘に疎開していた彼は以後そこで暮らすようになった。