私の母校新井小学校は今でも健在。その校歌も教育目標も昔のままです。私が小学生だった頃も「教育目標」と呼んでいたかどうか定かではありませんが、教育目標は今も「よい子 つよい子 できる子」。2023年4月に開校した妙高高原小学校は妙高高原北小学校と妙高高原南小学校が統合されてできました。その教育目標は「なかよく かしこく たくましく」で、なんと新井小学校の教育目標とほぼ同じ。「いつかどこかで」という言い回しが浮かんできて、少々複雑な気分になります。教育目標について子供の頃に説明された記憶などまるでないのですが、きちんと説明しようとすると、私など匙を投げるしかありません。それでも、不変の教育目標は変わりようがなく、お題目としては見事で立派な旗印になってきました。
新井小学校で変わっていないのは教育目標だけでなく、校歌も変わっていません。校歌の作詩は巽聖歌です。冬の季語のサザンカ(山茶花)はツバキ属の常緑広葉樹で、童謡「たきび」に登場しますが、その「たきび」を作詩したのが巽聖歌。その彼こそが新井小学校の校歌「頸城野の光あつめて」を作詞しました(そして、この校歌の作曲は何と「海行かば」の信時潔)。
*「海行かば」の作曲者は山田耕筰と様々な意味でライバルだった信時潔。山田はキリスト教の伝道師の子、信時は牧師の子として生まれます。そのため、賛美歌が彼の音楽の出発点です。信時は山田と同じく東京音楽学校出身で、ドイツに留学し、ドイツ古典派、ロマン派の音楽を学びました。雅楽調の「君が代」と違って、「海行かば」は正統的な西洋音楽に基づいて1937年に作曲されました。彼は1940年に慶応義塾塾歌を作曲していて、音楽に疎い私でも「海行かば」と塾歌がよく似ていて、重なる部分がとても多いと感じられるのです。その理由を探るうちに気づいたのは、信時は私の小学校の校歌の作曲者でもあったことでした。小学生の私は信時が作曲したことなどまるで知りませんでしたが、何度も歌った校歌の残響が今でも脳内に残っています。
妙高高原小学校の新しい校歌は歌手の高木いくの作詞・作曲で、その歌詞は杓子定規に分類すれば口語自由詩です。歌詞は三番までありますが、以下に一番だけ書き記しておきます。
木々の匂いを 胸いっぱい吸い込めば
朝の光がキラキラ踊りだすよ
かなしい涙も うれしい涙も
雪になって森に湧いて
いつかは誰かをうるおす
まけるな雪ん子 ぼくらは高原の子
星空もともだちだよ 妙高高原小学校
では、南と北があった旧小学校の校歌はどうだったのでしょうか。旧妙高高原南小学校の校歌「関川児童の歌」の作詞は堀口大學で、文化勲章受章の詩人。大学は東大近くで生まれ、「大學」と名付けられました。外交官の父が朝鮮に赴任したため、父母の故郷長岡に移り住みます。旧制長岡中学卒業後、上京し、与謝野鉄幹の主宰する「新詩社」に入門。新詩社で知遇を得た佐藤春夫と共に慶應義塾大学文学部に入学。昭和20年7月、妙高市関川にある妻マサノの実家畑井家に疎開。天然記念物の大杉がある関川天神社近くが大學の疎開の地でした。当時の妙高南小学校の校歌の作詞を地域の人々に頼まれ、その歌碑が今も残っています。その後、一家は関川から高田(現上越市)の南城町に移り住み、5年ほど過ごしました。大學が作詩した校歌は以下のような歌詞です。
関川児童の歌
(一番)
越後信濃の国ざかい
瀬の音絶えぬ関川の
清き流れに名にし負う
歴史にしるき関所あと
(二番)
姿凛々しき妙高の
高根の風を身に受けて
われらこの地に生まれいで
爽けき中に人となる
(三番)
匂うばかりの雪晴れの
あしたの空のけざやかさ
天は瑠璃色 地は真白
われらが行くて祝うとや
次は旧妙高高原北小学校の校歌です。作詞は小杉放庵で、洋画家、日本画家、歌人、随筆家で、本名は国太郎。日光市の二荒山神社の神官の子として生まれ、父は国学者です。1925(大正14)年、東京大学安田講堂の壁画を手がけ、1927(昭和2)年には、都市対抗野球大会の優勝旗である「黒獅子旗」をデザインしています。放菴は1930(昭和5)年に、横山大観も買ったと言われ、当時の名香山村に土地を購入しました。大観が土地を購入したというのは嘘だったのですが、温泉があり、スキーもできる環境が気に入った放菴は、その地に山荘を建て、「安明荘」と名付けました。1945(昭和20)年の東京大空襲で、放菴の田端の家が焼失したため、その後は名香山村に住み続け、安明荘は終の棲家になりました。放菴はそこで新文人画ともいうべき独自の水墨画を残しました。20年余りを新赤倉の安明荘で過ごした放菴が昭和26年に作詞した校歌の3番は、
大空高き 妙高の 嶺より高き 希望あり
国再建の将来は 我らの肩にかかりたり
越の名香山北小学校
となっていて、戦後の混乱期を経て、将来の国づくりを子供たちに託そうとした放菴の願いがよく表れています。この校歌は小杉放菴が作詞した唯一の校歌です。
巽聖歌、堀口大學、小杉放菴という詩人たちはそれぞれ個性ある歌詞を残したのですが、新井小学校の校歌を作詞した巽聖歌について付け加えておきましょう。
金子みすゞ(1903-1930)は長門市仙崎で生まれ、西條八十の後押しを受け、詩・童謡作家として注目されましたが、26歳で自ら命を絶ちます。その詩があらためて世間に知られるまで随分時間がかかるのですが、自選の作品をまとめた「琅玕集(ろうかんしゅう)」に、巽聖歌の代表作「水口」が入っています。一方、巽聖歌は大正14年の日記の知友一覧に、金子みすゞの名前と住所を記しています。1954年に巽聖歌の編集で刊行された『日本幼年童話全集』7童謡編(河出書房)には、みすゞの作品9編が掲載されています。巽聖歌は新美南吉と金子みすゞの二人を多くの人に知ってもらいたいと思っていました。
*『日本幼年童話全集』7童謡編の編集代表には小川未明も筆頭で挙げられ、巽が解説をしています。白秋(29編)、八十(29編)、聖歌(29編)、雨情(27編)、そしてみすゞ(9編)などが掲載されています。
巽は北原白秋の弟子で、「たきび」の作詞者として有名です。「かきねの かきねの まがりかど」で始まる童謡「たきび」の作詞者は国語の教科書にある「ごんぎつね」の作者新美南吉を世に知らしめたことでも知られています。彼が後半生を過ごした日野市の旭が丘中央公園には「たきびの歌詞の碑」が建てられています。