「忘れる」ことの断片的な諸相

 何かを忘れることは私のような老人には日常茶飯事のことで、珍しいことではない。忘れることが常に身近で起こっていて、その真相を探るにはもってこいの位置にいる。そこで、忘れることを知ろうというのが認知症老人の企みである。

 

Xを忘れる、ものを忘れる、名前を忘れる、日時を忘れる、約束を忘れる、記憶を忘れる

 

このような様々な「忘れ方」は「忘れる」ことが志向的であるように見える。私たちは何かを知るように、何かを忘れるのか。まだ知らないのに何を知るのかわからないように、既に忘れたなら何を忘れたかはわからない。「何か」について忘れるのだが、何についても忘れてしまうとなると、忘れたこと自体忘れてしまい、それは正に病気でしかない。

 ところで、老人にはものを忘れるより、そのものの名前を忘れる場合が圧倒的に多い。ものは思い出せるのだが、その名前が思い出せないのであり、ものが記憶の倉庫から消えてしまう訳ではない。名前、日時、約束はいずれも言語レベルで取り交わされたルールに基づいている。ものとルールの違いを通じて、「言葉ともの」の違いを忘れることを通して理解できるのかも知れない。

 「憶えていないものは思い出せないし、忘れたものは憶えておらず、それゆえ、忘れたものは思い出せない。」これは当たり前の推論で、そこに登場する言明も正しいことから、つまらない自明の主張だと誰もが判断する。だが、「忘れる」、「憶えていない」(「忘れない」、「憶えている」)は一体どのような記憶あるいは意識の状態なのか自問してみると、これが意外に謎で、厄介なのである。

 「私はXを忘れる」を私自身が自発的に発言できるか、と問うてみよう。「忘れる」という心的動作(?)ではなく、心的状態にしようとすれば、「忘れている」となるだろうから、「私はXを忘れている」として、問い直してみてもよい。誰からも何からも情報を与えられることなく、「私はXを忘れている」と私自身が自発的に気づいて、この文を発言できるのだろうか。さらに、過去形にして、「私はXを忘れていた」の場合はどうだろうか。私には前者はできそうにないのだが、後者の場合は私が自ら発言しても何ら支障がないように思われる。

 「私はXを忘れている」は「私はXを憶えていない」と同義だとすれば、やはり同じ問いが成り立つ。そして、「私はXを忘れている」、「私はXを憶えていない」ことをやはり私自身で自発的に意識できない。私は私以外のものや人からの情報の助けなしには意識できない、つまり、自分の内部情報だけでは自発的に意識できないというのが私の答えである。これは一見奇妙で、理不尽なことに思われる。

 これまでの議論の「私はXを忘れている」を「私はXの名前を忘れている」に置き換えてみよう。すると、奇妙でも理不尽でもない答えにならないだろうか。その上、「私はXの名前を忘れる」、「私はXの名前を忘れている」、「私はXの名前を忘れていた」のどれも十分にあり得ることで、どれも自発的に意識できる。

 XとXの名前は確かに私の記憶に関して違った風に振る舞っていることがわかる。さらに、日時、場所についても似たようなことが言えそうである。