名前を忘れる

 「憶えていない名前(もの)は思い出せないし、忘れた名前(もの)は憶えておらず、それゆえ、忘れた名前(もの)は思い出せない。」これは当たり前の推論で、そこに登場する言明も正しいことから、つまらない自明の主張だと誰もが判断する。だが、名前(もの)を「忘れる」、「憶えていない」(「忘れない」、「憶えている」)とは一体どのような心的状態なのか自問してみると、これが意外に謎で、厄介なのである。特に、老人の私は日常的に名前を忘れることを経験しているので、これは哲学的な問題というより、差し迫った日常の問題なのである。「名前」を「もの」に変えても同じように見えるのだが、私には大きな違いがあり、「ものを思い出せても、そのものの名前は思い出せない」というのが老人の物忘れの典型な型なのである。

 「私はXの名前を忘れる」を私自身が自発的に発言できるか、と問うてみよう。「忘れる」という心的動作(?)ではなく、心的状態の表現にしようとすれば、「忘れている」となるだろうから、「私はXの名前を忘れている」として、問い直してみてもよい。誰からも何からも情報を与えられることなく、「私はXの名前を忘れている」と私自身が自発的に気づいて、この文を発言できるのだろうか(私の経験では「できる」というのが答)。さらに、過去形にして、「私はXの名前を忘れていた」の場合はどうだろうか。いずれの場合でも、私が自ら発言しても何ら支障がないように思われる。

 「私はXの名前を忘れている」は「私はXの名前を憶えていない」と同義だとすれば、やはり同じ問いが成り立つ。そして、「私はXの名前を忘れている」、「私はXの名前を憶えていない」ことをやはり私自身で自発的に意識できる。私は私以外のものや人からの情報の助けなしに意識できる、つまり、自分の内部情報だけでも自発的に名前忘れを意識できるというのが私の答えである。

 こんな風に書いてきても、多くの人は狐につままれた感じがするだけだろう。私は植物日記のようなレポートをほぼ毎日facebookに書いているが、植物の名前をよく忘れる。記憶の中の植物、眼前の植物、それらの植物の名前をよく忘れ、憶えてもまた忘れ、その繰り返しに自らの老化を痛く感じながら、それでもそれを繰り返している。記憶は植物の名前を思い出せないことで一部欠損する筈だが、それがどのような欠損なのか実は私にはよくわからない。「ヒメユズリハ」という名前は忘れても、ヒメユズリハ自体を忘れるわけではなく、そのため事典で再確認できるのである。ヒメユズリハは樹木であり、外部情報であり、それが「ヒメユズリハ」という名前によって記憶され、その名前がヒメユズリハとその特徴を指すことになっている。植物名だけでなく動物名、さらには人名についてもほぼ同じことが成り立つ。ものは忘れないが、その名前は忘れる。この例によって、「Xを忘れている」ではなく、「Xの名前を忘れている」と書いたことがどのようなことか納得できるのではないか。

 では、もの自体を忘れたら、それを自発的に思い出すことはできるだろうか。名前を忘れた場合とは違って、自発的に思い出すことはできないように思える。