忘れる、憶えるということ:本性か、病気か?

(1)忘れたくても、忘れられない

(2)憶えていたくても、憶えていられない

 (1)は忘れられない、つまり憶えていることを述べ、(2)は憶えていられない、つまり忘れることを述べていて、(1)と(2)は正反対の内容になっています。つまり、(1)は記憶していること、(2)はその記憶を忘却することを述べています。忘れる内容と忘れる時を憶えていれば、忘れることはないだろうし、何かを憶え、その憶えたことを憶えていれば、忘れることはないだろうという訳です。確かに、「忘れる」と「忘れている」、「憶える」と「憶えている」は微妙に違ったこと(出来事と状態)を表現しているのですが、それはひとまず横に置きましょう。(1)と(2)のいずれが簡単なのか、困難なのか、あるいは、いずれが幸福なのか、不幸なのか、多くの人が長い間様々な思いを巡らしてきました。

 人を忘れることとその人の名前を忘れることは違います。名前を忘れても、顔は憶えていることがよくあります。しかし、言葉を忘れていくだけでなく、世界の物や事も忘れていくことになるのが普通です。

 名前や表現を忘れる、言葉の一部を忘れる、

 ものやことを忘れる、世界の一部を忘れる

 好きな人を失うことがあっても、その好きな人を忘れることはなかなかできません。そして、私たちはそれらに悩み続け、惑わされ続けてきました。何かを忘れると、それを意識できなくなり、思い出せなくなります。つまり、記憶がなくなれば、意識できず、意識できなければ、記憶がないということです。こうして、意識できないものが増え、それらを忘れていくと、それらは世界の事物ですから、世界とのつながりが次第に薄れ、消えて行くことになります。つまり、忘れる人にとっては、世界は次第に萎み、見えなくなり、終には消失していくことになります。こうして、「すべてを忘れる=世界が無になる=世界が消える」ということになり、世は諸行無常どころか、無に帰することになります。記憶も意識も世界とつながる工夫、世界を知る工夫であり、それを支えるものが「知る」ことを結果する欲求です。知りたいものに対して好奇心が働き、知りたくないものに対しては嫌気心が働く、と私たちは解釈してきました。何が知りたく、何が知りたくないかは個人と状況に依存していて、正に千差万別です。

 忘れたいものをスムーズに忘れ、憶えておきたいものをスムーズに憶えておくことが実行できたなら、人の心は病気知らずで、健康だったはずですが、最初の二文、(1)忘れたくても、忘れられない、(2)憶えていたくても、憶えていられない、は認知症の方だけでなく、人間すべてに成り立っていて、とても根深く、(1)も(2)も人間の本性の一つになってきたように思われます。でも、そうなると、人の心は本来的に病んでいることになりかねません。病んでいるのだとすれば、自由に忘れ、自由に憶えることができるように治療することは反自然的なことになり、その治療は反倫理的な行為ということになりかねません。

*このような結論はとても不健全です。そこで、この結論に反論したくなるのですが、その際、最初の(1)忘れたくても、忘れられない、(2)憶えていたくても、憶えていられないを、(3)忘れたければ、忘れられる、(4)憶えていたければ、憶えていられる、に変えることができれば、忘れると憶えるが自由自在にコントロールできることになり、異なる結論が得られるはずです。でも、(3)と(4)は現在実現できる見込みのない言明にも見えます。そこで、(5)忘れたければ、時には忘れられる、(6)憶えていたければ、時には憶えていられる、という現実的な言明にかえてみることも考えられます。このような工夫をしながら、上記の結論とは異なる結論を色々考えてみて下さい。