記憶と忘却の地位

 憶えていることと忘れることは憶えている状態と忘れる出来事という違いがあっても、日常生活では「憶える-忘れる」と並んで、「憶えている-忘れる」が対になって考えられていて、「いつ憶えるか」より、「どれだけ憶えているか」の方が日常生活では重要なことがしばしば起こります。長い間憶えていたことが、一瞬に忘れ去られることが起こるというのが私たちの住む世界です。すぐに忘れ去られることも、長く記憶に残ることもあり、その違いは実に気紛れで、それゆえ、世界は変幻自在、魔訶不可思議ということになっています。大抵の場合、いつ憶えるかより、いつ忘れるかの方が重要で、それが「憶えている-忘れる」の方が「憶えるー忘れる」より対として事態をより自然に反映しているように映るのです。

 ところが、AIは憶えることが完全で、忘れることが原理的にないことになっていますから、AIの世界は私たちの脳の世界とは随分違うことになります。AIの世界の変化は知識の変化で、それは私たちの記憶と忘却の世界ではなく、記録の書き換えだけの世界です。

 記憶内容を楽しみ、悲しみ、それらを思い出す楽しみ、忘れられない悲しみを私たちは体験するのですが、AIが何かを思い出すのは楽しんだり、悲しんだりするためとは考えられていません。AIが忘れるのは故障したからか、私たちが命令したからですが、私たちが忘れるのはそれらに加えて、自発的に忘れたいからです。

 こうして、AIが考えるマシーンだとしても、まだ、欲求を持つマシーンだとは考えにくいのですが、それは「記憶の記録に関する欲求」がうまく処理されていないからであることが記憶とその消去に関する考察からわかります。要するに、私たちの心の振舞いとAIのそれは随分と違っているのです。忘れることはAIにとって単なる病気、故障、欠陥に過ぎないのですが、私たちにとっては、忘れることは憶える、憶えていることと並んで、私たちの本性でもあるのです。