秋のリンドウの花

 リンドウは秋の山野草の代表で、里山の明るい林床や草原に見られ、薬草としても広く知られています。春に芽が伸び、ササの葉に似た細い葉をつけ、夏が過ぎると、茎は次第に横に倒れ、秋に先端に小さな蕾をのぞかせます。蕾は渦状に巻いた状態で、日を追うごとに伸び、青紫色で5裂した筒状の花を数輪開きます。

 リンドウは漢字で「竜胆」と書き、リンドウの根は竜胆(りゅたん)と呼ばれ、赤褐色で苦味が強く、健胃薬に利用されてきました。竜胆は「熊の胆(くまのい)」より苦いことから、熊より上位の動物である「竜」の名がつけられ、「竜胆」と名付けられました。植物の名前の方はその竜胆がなまってリンドウになったと言われています。

 リンドウには多くの園芸種が見られ、鉢花や切り花に人気があり、広く流通しています。二種類の園芸種の画像を挙げておきます。最初は安代りんどう「クリスタルアシロ」と呼ばれる園芸種で、岩手県八幡平市で生産されています(最初の画像)。次は「花巻銀河ブルー」で、宮沢賢治の好きだった青色に因みます(残りの二枚の蕾の画像)。

 

マユミの赤い果実と種子

 ニシキギ科のマユミ(檀、真弓、檀弓)は山地に自生する落葉樹で、その別名はヤマニシキギ(山錦木)。秋に果実と種子、そして紅葉を楽しむことができる。材質が強く、よくしなるため、縄文時代から弓の材料として知られ、それが名前の由来。「真弓」の「真」は最も優れていることを表し、マユミが高級な弓材であったことがわかる。かつては和紙の材料にもなったが、材は緻密で堅く、色も美しく、印鑑や櫛の材料になってきた。

 新芽は山菜として天ぷらやおひたしの材料になる。秋になるとサイコロステーキのような薄紅色の実が鈴なりになる。これを目当てに鳥がよく集まるが、同じ仲間であるニシキギやマサキと同じように、果実が熟すと四つに裂け、中から赤色の種子が顔を出す。この種子には毒性がある。

 スウェーデン博物学者リンネは生殖が植物にとって最重要と考え、生殖形質に基づく分類こそが自然分類だと考えていましたが、その一例がマユミの熟した果実と赤色の種子である。人間をも惹きつける形や色を持っていて、私も熟した果実と赤い種子に魅了されてしまうのである。

 

タチバナモドキの帰り咲きの花と実

 バラ科タチバナモドキ(橘擬、Pyracantha angustifolia)は中国原産の常緑低木。既にピラカンサの真っ赤な実について記したが、タチバナモドキの葉は長さ5〜6cmの狭く長い楕円形で、葉裏に灰白色の毛が密生するのが特徴。春に白い小さな花をつけ、その後の実は緑色で、秋に橙黄色に変わる。タチバナモドキの名前は果実の色や形が扁球形でミカンのようなタチバナに似ていることから。現在はタチバナモドキ、カザンデマリ、トキワサンザシを総称して「ピラカンサ」と呼んでいる。

 タチバナモドキの実は橙黄色、トキワサンザシの実は鮮やかな紅色、タチバナモドキの白い一輪の花はトキワサンザシの複数の花のまとまりとは随分と違っている。画像はタチバナモドキの帰り花(かえりばな、返り花)で、11月頃の小春日和に、桜、梅、梨などの草木が本来の季節とは異なって咲かせた花のこと。忘れた頃に咲くため、「忘れ花」とも言われる。また、「二度咲」、「狂い咲」とも呼ばれる。

*画像はタチバナモドキの八重咲きの帰り花と色づいた実である。

 

秋の黄色の花に集まるアブたち

 ツワブキ(石蕗、艶蕗)の花が今あちこちで咲き出しています。晩秋から初冬にかけて咲く黄色い花は風景に彩を添えます。キク科のツワブキは常緑多年草で、茎や根に薬効があります。ツワブキの葉はフキ(蕗)に似ていて、革質でつやがあることから「つやぶき」となりました。冬から春にかけて、ツワブキの若葉を摘み取って、「きゃらぶき」をつくることができます。九州での収穫は1月頃から始まり、食べ頃の旬は3月から4月。フキとよく似ていますが、フキが夏に葉を広げるのに対し、ツワブキは常緑性で一年中青々としています。

 今はセイタカアワダチソウツワブキの黄色の花が咲き誇り、その花に群がるのが様々なアブ。とても賑やかで、つい見惚れてしまいます。子供と老人は似ていると言われますが、生き物への好奇心の強さと生態への興味はその典型例の一つなのかも知れません。そこで、子供の観察記録の一端のような、ツワブキに集まっていた小動物たちを列挙してみると、キゴシハナアブ、オオハナアブ、ナミホシヒラタアブ、ナミハナアブ(画像はこの名前順)です。

 私にとっての戸外での生き物見学は、子供の気持ちを追体験しているのだと勝手に思い込んでいて、これも老人の楽しみの一つです。

*最後の三枚の画像がナミハナアブ

 

ピラカンサの真っ赤な実

 バラ科ピラカンサPyracantha angustifolia)の実が真っ赤になり、紅葉より一足早く紅の実を見せてくれている。私たちはその紅い実によって秋を見て、秋を実感できるという訳である。

 湾岸地域にはタチバナモドキに似たトキワサンザシやカザンデマリ(ヒマラヤトキワサンザシ)もある。現在はタチバナモドキ、カザンデマリ、トキワサンザシを総称して「ピラカンサ」と呼んでいて、識別が苦手な私には実に好都合なのである。ピラカンサの英名は「Firethorn」だが、Fireが炎、thornが棘で、棘があり、実が燃える炎に見えることから名前がつけられた。実に写実的な名前で、画像で確かめたくなる。ピラカンサの実が炎に見えることを愛でながら、変わっていく自然を味わい、秋を楽しもう。

 

神仏習合と親鸞

 538年または552年、百済聖明王が仏像と経典を日本に献上します。当初は蘇我氏(崇仏派)と物部氏(廃仏派)の対立があり、仏教の受容は政治的緊張を伴っていました。仏教は「蕃神(外国の神)」と捉えられ、日本の神々との関係が問われたのです。日本には既に自然崇拝や祖霊信仰を中心とした神道がありました。仏教は神道を否定せず、むしろ日本の神々を仏教的に解釈することで共存を図りました。この柔軟な受容が、後の神仏習合の下地になったのです。

 本地垂迹(ほんじすいじゃく)説は神が仏の仮の姿であり、仏が人々を導くために神として現れたという思想で、八幡神阿弥陀如来伊勢大神大日如来はその例です。この説により、神仏習合は思想的に体系化され、全国に広まります。神社と寺院が同じ敷地に存在する「神宮寺」や「社寺複合空間」が全国に広がり、民間信仰や祭礼においても、神道と仏教が融合した儀礼が行われるようになります。神仏習合は単なる宗教融合だけではなく、政治・社会・地域共同体の安定装置として機能しました。

 さて、「神祇」は「天神地祇(てんじんちぎ)」の略で、天神は「あまつかみ」と呼ばれ、天上で生まれ、天上から降(くだ)った神のことで、地祇は「くにつかみ」と呼ばれ、地上に天降った神の子孫、あるいは地上で生まれた神のことです。「神」は「天神」を、「祇」は「地祇」を表し、「神祇不拝」とはそれら神々を拝まないことです。そして、その神祇不拝を主張した代表が親鸞で、当然ながら彼は神仏分離を主張します。

 ですから、親鸞の教えに忠実な門徒であれば、他力本願の阿弥陀信仰を持つことと神社に祀られている神々を拝むことが両立しないと考えるのです。浄土真宗のような鎌倉新仏教は一神教に近い性格を持っていて、他の宗派とは激しく対立します。ですから、門徒が氏子になることはあり得ないというのが当たり前の筈なのですが、その後の歴史を見れば、そうはなっておらず、氏子の中に門徒がいてもおかしくないどころか、氏子と門徒は文句なく共存できるというのが現在までの実際の姿で、それは「神仏習合」と呼ばれてきた一例に過ぎません。

 奈良時代以来、仏教と神道は習合しながら、互いを守り合ってきました。その具体的な姿が修験道であり、「…権現社」と呼ばれる神社です。明治になってそれが崩れ、仏教と神道は分離され、別々に拝まれることになりました。

 死んだ人間や動物などの霊魂を神社に祀ると、そこに留まり、人々に幸せや不幸を与える力を持つと信じられている神が「実社の神」です。例えば、日光東照宮徳川家康明治神宮明治天皇です。一方、「権社の神」は仏や菩薩が神として仮に現れていると解釈された神です。その解釈は本地垂迹説と呼ばれています。「本地垂迹」とは、仏が仮に神となって現れるということで、本地が仏、神が垂迹です。この教えを神社の神にあてはめて、日本の神を仏や菩薩の権現(ごんげん、仮の姿のこと)であるとしたものが、権社の神です。例えば、「八幡大権現」、「東照大権現」。でも、明治時代に神仏分離令が出され、現在は権社の神は消えました。神が人の勝手な都合で生まれたり、消えたりするとは何ともおかしな話で、およそ宗教らしからぬことですが、これは何も神道だけの話ではありません。宗教教義や宗教儀礼は人がつくり、人が変えてきたのです。

 神道では、神社などで神を拝めば、一家が繁栄したり、商売が繁盛したり、病気が治ったりすると教えていて、私たちはそれに何となく従ってきました。そして、多くの人は欲望を満たすのが幸せだと思っています。生きている間に持つ欲望を一つ一つ満たしていけば、それで十分幸せだと思う人なら、それで十分なのですが、人の欲望は限りなく、それが不幸を生み出すと考える人もいて、その中の一人が親鸞だったのです。

 財産、地位、名誉や家族ではなく、「後生の一大事」の解決によってのみ幸福になれると説くのが仏教です。仏教の目的は、後生の一大事の解決です。ところが、後生の一大事を解決する力があるのは阿弥陀如来だけですから、「後生の一大事をはやく阿弥陀如来に解決してもらいなさい」というのが教えになります。この「後生の一大事」とは、「生死を離れる」こと、つまり、「解脱する」こと、「ブッダになる」ことです。『歎異抄』にも「われもひとも、生死を離れんことこそ、諸仏の御本意」と述べています。

 したがって、親鸞の教えを信じる門徒であれば、どの門徒も神祇不拝で、後生の一大事の解決を目指すことになる筈なのです。ですが、その筈は実現するどころか、寺と神社が共存する生活世界ではほぼ誰も実現を望まないのです。

 信教の自由が認められている世界では寺院と神社が共存している風景は珍しいことではなく、それぞれの信者が寺院と神社を別々に維持しているだけのことで、何の不思議もありません。ところが、門徒がほぼ独占状態の妙高市新潟県)でも他と同じように共存している訳です。妙高市には神社は僅かしかないというのが真面目な門徒の住む妙高市の姿の筈なのですが、そんなことはなく妙高市の神社の数や祭りは近隣の町と何ら変わりはないのです。ですから、これが神仏習合の実際の姿だと見極める必要がありそうです。つまり、論理的にはあり得ないのですが、「真面目な門徒は真面目な氏子である」ことが真であり、それが日本の神仏習合の実際の姿なのです。

 親鸞神仏習合の宗教状況の中に生きながらも、阿弥陀仏への専念を通じて神祇信仰(日本の古代からある天の神と地の神(天神地祇、神祇)を対象とした信仰の形態)を相対化し、独自の神祇観を示しました。彼の仏教は神仏習合の枠組みを受け入れつつも、それを超える「念仏者の救済」を中心に据えています。親鸞は神祇を「善鬼神(仏道修行者を守護する超人的な存在)」と位置づけ、『御和讃』で「天神地祇はことごとく善鬼神となづけたり」と記し、神々は念仏者を守護する存在であると捉えました。これは神々を否定するのではなく、阿弥陀仏の救済のもとに位置づけることで、神仏習合的な世界観を再構成したものです。門弟・平太郎が熊野社参詣をめぐって親鸞に相談した際、親鸞は「熊野権現阿弥陀如来が仮に現れた姿」と説明。これは本地垂迹説に基づく解釈であり、親鸞神仏習合説を用いて念仏者の信仰を守った例です。親鸞は神祇信仰を「迷信」や「雑行」として批判する一方で、神々が念仏者を守る存在であるとする「護念」思想も展開しました。これは神仏習合の宗教状況に対する柔軟な対応であり、排除ではなく再解釈による超越を目指した姿勢です。

 親鸞以降の真宗教団では、神祇との関係をめぐって「不拝」や「護念」の立場が分かれ、地域によって神仏習合的実践が残存します。近世には真宗寺院でも神棚や神事が行われる例があり、親鸞の思想と民間信仰の間で折衷的な展開が見られます。

サルスベリの秋

 ナチェズ(Natchez)は中国原産のサルスベリと日本原産のヤクシマサルスベリとの交雑で生まれた品種。白色の花は長さ30cmまでの長い花序を作り、秋になると橙色から赤色に発色する非常に美しい紅葉が見られます。開花時期は初夏から秋で、小花は6枚の縮れた花弁をもち、花序は円錐花序。

 仏教の三大聖木(無憂樹、菩提樹、沙羅樹)は日本では気候の違いなどから育てることができず、代用樹が用意されました。ナツツバキは沙羅樹の代用で、無憂樹(アショーカ樹)は花姿が似ていたサルスベリが代用となりました。また、菩提樹はインド菩提樹ではなく、中国原産の菩提樹が代用樹になってきました。確かに、私の記憶の中のサルスベリは近くの寺の境内にあり、そのすべすべの木肌を今もよく憶えています。

 江戸時代に渡来したサルスベリミソハギ科の落葉中高木。木登りが上手なサルでも、滑り落ちるほど樹皮が滑らかということから命名され、漢字では「猿滑」、「百日紅」などと書かれます。「百日紅」という字の由来と「さるすべり」という呼び方の由来はまったく別モノ。「百日紅」を「さるすべり」と読むのは「熟字訓(じゅくじくん)」という読み方で、熟字訓は漢字1字に読み方をあてるのではなく、熟字(2字以上の漢字の組み合わせ)に訓読みをあてた読み方。熟字に訓読みをあてた熟字訓は熟字(2字以上の漢字の組み合わせ)に読み方があてられているため、漢字単体に読み方が振り分けられていません。熟字訓は正に「方便文化」の一つで、いい加減と当意即妙、頓智と機知の紙一重の工夫です。でも、既述の「千日紅」、「百日草」はそれぞれ「センニチコウ」、「ヒャクニチソウ」と真面に読まれています。

ナチェズ

マサルスベリの実

マサルスベリの紅葉