正念寺礼讃

<三業惑乱論争>

 異安心は浄土真宗を特徴づける異端論争ですが、その発端の一つが「小児往生が可能か否か」の論争で、東本願寺派の願生寺と高田の浄興寺の間で1685年に起こります。願生寺の栄誓が追放され、新井掛所がつくられ、後に新井別院となり、その報恩講は「おたや」と呼ばれることになります。その後、三業惑乱論争が西本願寺で起こり、その後始末と体制是正のために正念寺の三葉勧学が貢献しました。これら二つの異安心論争の結果は、今の妙高市の9割以上の寺院が浄土真宗であり、市民の多くが無意識であっても、門徒であることにつながっています。

 三業惑乱は今から220年前に起きた浄土真宗の異安心(異端)論争です。1797年から1806年までの約10年間、教義論争から権力闘争へと続き、幕府まで介入した西本願寺の争いでした。既述の東本願寺の小児往生に続き、西本願寺でも異安心の問題が起き、しかもその問題構造がよく似ていました。浄土真宗本願寺派(西本願寺)では親鸞の教えを正確に伝えるように能化制度がありました。能化(のうけ)は本願寺で教義と安心(あんじん、信心のこと)を取り仕切る最高責任者のこと。さて、三業惑乱の発端は越前にあった「十劫安心(じっこうあんじん)」という異安心です。その別名は「無帰命安心」ともいわれます。「安心」は「信心」のことで、「無帰命(むきみょう)」は阿弥陀仏に救われていない、ということです。親鸞、覚如、蓮如の信心は同じで、彼らの信心と異なる信心が異安心です。「十劫安心」は「十劫の昔に、既に私たちは助かっているのだから、さらに求める必要はない」という信心のことです。これが間違いであることを示し、正すため、2代目の能化知空(ちくう)の頃から帰命の一念を強調していました。本願寺は6代目の能化功存(こうぞん)を越前(福井)へ派遣し、彼は阿弥陀仏をたのむ一念の体験が大切と力説し、十劫安心を徹底的に批判しました。1797年、功存が病気で亡くなると、弟子の智洞(ちどう)が能化を継ぎます。智洞は学林での『大無量寿経』の講義の際に「三業(さんごう)で阿弥陀仏をたのまなければ助からない」と教えました。三業は身業(しんごう)、口業(くごう)、意業(いごう)のことで、身体で行い、口で話し、心で思うことが三業です。「三業で阿弥陀仏をたのまなければ助からない」は「身体と口と心でお願いしなければ助からない」ということです。これが「三業安心」、「三業帰命」と呼ばれてきました。ところが、浄土真宗の教えは「信心正因(しんじんしょういん)」です。親鸞は「涅槃の真因は唯信心をもってす。」(教行信証信巻)と述べ、「浄土往生の因は信心である」ことを意味していました。浄土に往生して悟りを得る因はただ信心のみです。信心は阿弥陀如来のはたらきですから、信心だけで往生の因が出来上がる。すなわち信心以外の行いは往生成仏の正因ではなく、称名念仏は正因にならない。能化の講義はこれに反すると反論したのが大瀛(だいえい)でした。大瀛は命がけで智洞の講義の不審をただす手紙を書き上げ、質問を二つしました。それらは「なぜ信心正因が間違いなのか」、「なぜ三業帰命でなければならないのか」です。こうして三業惑乱は「三業帰命」か、「信心正因」かという2つの派閥に分かれて、各地で激論されました。

 幕府はそれまで、教義論争に介入しない方針でしたが、各地で争いが起こり、寺社奉行の脇坂安董から「直ちに騒動をおさめよ」と本願寺に警告が出されました。しかし、本願寺に騒動をしずめる力がなく、京都所司代によって、大瀛と智洞の討論がなされました。

 大瀛と智洞の間の法論では、生死をさまよう重病人であった大瀛は堂々と論陣をはり、親鸞が「涅槃の真因は唯信心をもってす」と述べた「唯」はただ一つである、なぜ三業帰命が必要なのかと「唯」の意味を問いただし、智洞を撃破しました。その論争の後も、大瀛は寺社奉行に分かるように浄土真宗の他力信心を語り、口述筆記で安心書を作ります。それを寺社奉行に提出した直後、大瀛は危篤に陥り、この世を去ったのです。

 徳川幕府はどの宗派にも一定の経済的利益と宗教的権威を与えることで、仏教界の不満を抑え、幕府に従わせました。仏教寺院を幕府の行政機関として活用することで、国民を個人単位、あるいは各戸単位で管理統括しました。これらの政策が幕府の三業惑乱の始末によく表れています。それはヨーロッパの宗教裁判と違って、どの宗派も公平に扱い、裁定を下しています。政教分離ではなくても、徳川幕府は各仏教宗派には公平でした。

 本願寺自体も閉門百日となります。やがて閉門が解け、開門した本願寺は、法主の本如の名で、『御裁断の御書』を発表します。この「三業帰命」と「信心正因」が対決した10年にわたる三業惑乱によって、「三業帰命」は退けられましたが、振り子がふれるように今度は帰命の一念にふれることを恐れるようになり、浄土真宗の肝要である「たのむ一念」にふれなくなってしまったのです。現在でも「十劫安心は間違いだ」と叩けば、三業安心にふれ、「三業安心は間違いだ」と叩けば、十劫安心にふれます。他力信心の振り子はなかなか止まってくれません。結局は「他力」と「自力」のそれぞれの意味と関係が問われ続けているのです。

 その後、1824年に「勧学寮」が作られて、「能化」の代わりに「勧学」が設けられます。新井の正念寺の三葉勧学(興隆、僧朗、慧麟)は1830年代と想定できますから、本願寺派が三業惑乱から立ち直るための新組織がスタートした直後のことだとわかります。数名の勧学らによる勧学寮という門主の諮問機関である組織を設置し、それに勧学として出直しに係わった一つが正念寺でした。

<正念寺三葉勧学の果たした役割>

 三業惑乱において正念寺の三葉勧学(興隆、僧朗、慧麟)は、「信心正因」を基軸とする古義派の立場から三業帰命説を体系的に批判し、本願寺教学の再建を主導した中心的存在として評価されてきました。現在の研究でも、「地方寺院でありながら、中央の教学を三代連続で担った稀有な例」として高く評価されています。

*大瀛、道隠など在野の学僧が古義派、正義派で、智洞を代表とする学林が新義派、三業安心派と呼ばれる。

 三業惑乱における正念寺三葉勧学の役割は古義派の中心として三業帰命説を批判することでした。三業惑乱の争点は信心正因(古義派)と三業帰命(新義派=能化智洞)の対立でした。正念寺の三名は、「三業をそろえて頼むのは自力であり、他力の教えに反する」という古義派の立場を明白に支持し、三業帰命説を異安心として退けました。

 三業惑乱後、本願寺は能化制度を廃止し、1824年に勧学職を新設します。正念寺の三名はこの新しい教学制度の初期を担った勧学であり、教学を安定化し、体系化を実質的に主導しました。興隆(恵音・僧音)は『無量寿経天寿録』、『教行信証徴決』などを著し、親鸞教学の原点回帰を図る古義的真宗学を整備しました。

 三業惑乱後、本願寺は異安心審問を厳格化します。三葉勧学は『豊後南渓異安心御糺』などの審問書に意見を述べ、教学の裁定者としての役割を果たしました。

 では、現在は彼らの活動はどのように評価されているのでしょうか。正念寺のような地方寺院が中央教学を三代連続して勧学として担った稀有な例であり、現在の研究でも特異な存在と評価されています。三業惑乱後の教学再建の中心人物として評価が高く、彼らは信心正因の再確認、他力信心の体系化、『教行信証』中心の教学再建を担い、本願寺教学の再建に決定的な役割を果たしました。在野、地方の勝利という三業惑乱の構図を象徴しています。三業惑乱は、中央(能化)ではなく在野、地方の学僧が勝利した唯一の大論争であり、その象徴的存在が三葉勧学でした。正念寺は明治期まで教学を継続し、地域教育にも影響を与え続けました。慧麟は明治2年まで存命し、明治3年には『真宗要義論』が書写されていることが確認され、幕末〜明治初期まで教学活動を継続しています。また、正念寺は崑崙舎という学塾を維持し、地域教育にも影響を与えています。三葉勧学は、三業惑乱後の本願寺教学において「信心正因」を軸とする古義真宗学の再建者であり、異安心判定の司法的役割を演じ、地方真宗学の高さを象徴する存在でした。特に、地方寺院が中央教学の中枢を三代にわたり担ったことは、現在の宗教史研究でも極めて重要な事例なのです。

 正念寺の三葉勧学の果たした役割を振り返ってみましょう。正念寺の崑崙舎(こんろんしゃ)の教育内容と寺子屋、近代学校の連続性について考えてみよう。崑崙舎は正念寺がつくり、維持した地域学塾(寺子屋的教育機関)で、その教育内容は江戸寺子屋の実用教育(読み書き・往来物・算術・礼儀)を継承しつつ、真宗教学(『教行信証』講義など)を中心にして、明治初期の近代学校制度へ自然に接続した教育機関です。これは、正念寺が三葉勧学の教学的伝統を地域教育へ拡張した結果であり、寺子屋→学塾(崑崙舎)→近代学校という連続性を示す典型例と評価できます。

 正念寺は三葉勧学の時代以降も「学寮(学塾)としての機能を維持し、地域の真宗教育の中心として活動を継続」し、明治期に入っても「崑崙舎という学塾を保持」していたことが確認できます。また、慧麟(1788–1869)は明治2年まで存命し、1870(明治3)年に『真宗要義論』が書写されていることから、幕末〜明治初期まで講義活動を継続していたことがわかります。これは、崑崙舎が単なる寺子屋ではなく、真宗教学と庶民教育を兼ねる「地域学問所」として機能していたことを示します。

*『新井市史上巻』、第6章第四節「三葉勧学と崑崙舎」、pp. 842–9