自力の禅宗:白隠と上信越

 神の恩寵や弥陀の本願というキリスト教や浄土真宗の他力宗教と違う自力の仏教の代表が禅宗です。そこで、禅宗では知ることと信じることがどのように考えられているのかを白隠の悟りを例に考えてみましょう。

 禅は大乗仏教の一派で、自力宗教。その教えを中国に伝えたのは南インド出身の達磨。鎌倉時代に日本に伝えられ、室町時代に幕府の庇護の下で発展しました。禅宗の目的は「悟りを開く」ことで、「知識ではなく、悟り」を重んじます。禅宗の悟りとは「生きるもの全てが本来持つ仏性という本性に気づくこと」を指すと言われていますが、「仏性」は「成仏するための基礎である神聖な性質」と言われると、わからなくなります。このため、唐代の祖師たちは苦闘を重ねてきました。宋代以降、悟りを得るための多くの技法が考案され、坐禅、公案、読経、作務の修行を既に悟りを得た禅師の元で行うことによって、悟りが得られるように指導方法が整備されてきました。悟りは師から弟子へと伝えられますが、それは言葉(ロゴス)による伝達ではありません。悟りを言葉によって定義することは出来ないため、禅が日本に伝わった後、詩や絵画を始めとした芸術的な表現を借りて悟りが直示されてきました。ですから、禅宗は理性的ではなく、直観的です。

 悟るための原則は「事物の真理に到達するために概念に頼らない」ことです。西洋の真理は論理的、言語的ですが、東洋的真理は直観的で、非言語的だと言われます。「生」の究極真理は概念的にではなく、直観的に把握されるべきだと主張するのが禅宗です。

 悟りには大悟、中悟、小悟があります。悟りにはその深さや範囲に様々な段階があります。大悟は根源的な目覚めを指し、そこに至るまでには中悟や小悟と呼ばれる段階的な気づきがあります。日常の中でふとした瞬間に「これはこういうことだったのか」という中悟や小悟が起き、それが積み重なることで、やがて大きな目覚めへと繋がっていくとされています。気づきの積み重ねが悟りの道です。漸悟(ぜんご)は少しずつ心の目が開いていく悟りのあり方を意味しています。日々の修行や生活の中で、気づきが重なり、やがて大きな智慧(ちえ)へと結実していきます。一方で、頓悟(とんご)は突然の覚醒を意味します。すべての迷いが霧のように晴れ、世界の本質が一瞬でわかるような、衝撃的な体験を伴う悟りです。禅宗では、この頓悟が語られることが多く、歴史上の禅僧たちの中にも、ある言葉や出来事が引き金となり、突然大悟に至ったとされる逸話が数多く残されています。これが悟りについての禅宗の分類や説明ですが、肝心の悟りの内容については何も語られていません。

 さて、白隠が越後高田で大悟し、さらに信州飯田でそれを確固たるものにしたのはとても偶然的で、想像できないような偶然でした。それを具体的に見てみましょう。

(1)白隠の最初の大悟

 白隠は24歳の春、越後高田の英巌寺(えいがんじ)にいました。戸田忠真は1701(元禄14)年に高田へと所替えになります。戸田氏は移封の都度、菩提寺の英巌寺を移したので、高田にも英巌寺が建てられました。英巌寺は臨済宗の寺院です。高田時代の1708(宝永5)年に白隠慧鶴が英巌寺に入門し、性徹(しょうてつ)和尚の下で(師は認めていないものの)大悟を得たと自称しました。禅師は夜ごと、寺の裏手の静かなところに坐して、無字の公案に没頭していました。それは2月の始めごろから10日余りが経過した16日の夜のことでした。深い禅定に入ったまま、気がつくと、もう夜が白み始めていました。ふと遠くの寺から鐘の音が響いてくるのが聞こえました。その途端に、禅師は豁然(かつねん)として大悟したというのです。そして大笑すると、「巌頭和尚は、まめ息災であったやわい」と繰り返し叫んだのです。巌頭和尚は唐代の禅傑・巌頭全豁(がんとうぜんかつ)のことで、その最期は、賊に首を斬られて、すさまじい叫び声を上げて死んだと言われています。白隠は十九歳のときにこの話を聞き、いたく仏法に失望し、修行から離れてしまったという経緯がありました。地獄から逃れたいと思って修行しているのに、傑僧といわれた巌頭でもこの体たらくでは仏法には望みはないと思ったのでしょう。しかし、その巌頭和尚はまったく死んでなどいなかった、無事であったと白隠は言うのです。講義の席に出て師匠の評唱を聞いても、数十歩外に離れて、講堂の上の議論を聞くようでした。そのような状態が数日つづいたが、ある晩鐘の声を聞いて、がらがらとそれが崩れました。そこから忽然として蘇って来ると、自分が巌頭和尚そのものでした。「不思議だ、不思議だ、不死の逃れ出るべきものなく、菩提のもとむべきものもない。法灯を伝えているといわれる公案千七百則も、一向ものの役には立たぬ」と。そこですっかり得意になり、天狗になって、心ひそかに言ったのです。「二、三百年以来わしほど痛快にぶちぬいたものはないだろう」と。

 大悟した白隠慧鶴はその所見を性徹和尚に示しましたが、まるで評価されませんでした。同じ時、白隠は信州から来たある禅者に会い、彼の師正受老人が飯山の上倉村に自ら結んだ正受庵にいることを聞き、四月、その禅者の案内で正受庵を訪ねました。たまたま正受老人は柴を刈っていましたが、案内した禅者がこの青年僧を翁に紹介すると、翁は「うん」と素気なく言っただけでした。その後、彼は許しを得て入室し、一篇の偈(げ)を呈すると、翁は「こんなものは学んで得たもの、お前が実地に佛心を徹見したところはどうなのか」と迫ります。彼は「そんなものがあれば、吐き出してしまいますよ」と答えました。翁は彼をひっとらえ、「趨州の無学を何と見るか」とせめよります。彼はこの時、全身汗流れ、高慢心をへし折られます。翁は高々と笑いながら「このあなぐら禅者め。これしきの境涯で満足しているか」と言い、白隠は返す言葉もありませんでした。その後、翁は彼を見るごとに「このあなぐら禅者め」と叱りつけ、入室の際、彼が門をまたぐと見るや「なんと落ちこんでいるぞ。楼上から井戸の底を見ているようだぞ」といわれ、わずかに口を開くと、一喝されて押し出される始末。

 その後、胸つまる苦悶の数日が続きますが、ある日托鉢に出て、とある家の前に立っていると「他の家へ行きなよ」という老婆の声がしたのですが、彼はうっとりと忘我して立ち続けました。老婆は怒り、大きな竹箒を振り動かして「この坊主、よそへ行けというのに、まだぐずぐずしているとは」といって、彼を打ったのです。

 その瞬間に、彼は透脱して本心に開眼したのです。歓喜を内に包んで帰庵し、まだ門のしきみをまたがないのに、正受老人は彼を見るや、喜んで「汝徹せり」と言われました。その後、八か月余り、白隠禅師は翁の左右に侍し、その後飯山を去りました。

 長々と白隠の悟りの話をしてきましたが、何を悟ったのかは何も述べられていません。いつ、どのように悟ったかは述べられていても、肝心の悟りの内容がないのです。「悟る」、「わかる」、「知る」の違いは何かさえ覚束なく、概念的な知識を否定し、直観知を重視する禅は、わかるものをわざとわかりにくくしているように思えてなりません。

 上信越地域は圧倒的に浄土真宗の信者が多く、永平寺が近いこともあり、禅宗はほとんどが曹洞宗です。現在上越市には臨済宗は正輪寺、黄檗宗は法光寺で、その他の80以上の禅宗の寺院は曹洞宗です。上杉謙信所縁の林泉寺も曹洞宗です。英巌寺は既になく、当時の城主の菩提寺でしたから、寺町のどこかにあったことは間違いありません。古い『高田市史』(昭和33年)の記載によれば、英巌寺は浄土真宗の寺である「高田別院」の建つ場所にあったようです。ところで、飯山にも曹洞宗の寺院は今でも10以上ありますが、臨済宗は正受庵のみです。白隠の最初の大悟とその悟り直しは臨済宗とは縁がないように思える越後高田と信州飯山でなされました。白隠は歴史教育では江戸中期の臨済宗中興の祖ということになっています。

(2)白隠の試み:坐禅和讃(Wikipediaに全文あり)

 越後の高田で24歳の時に初めて悟り、信州の飯山で悟り直し、臨済宗中興の祖となったのが白隠で、禅宗の教えをわかりやすい日本語で和讃(仏や釈迦、仏教の経典などを日本語で讃える歌のこと)の形で著したのが彼の「坐禅和讃」です。禅は中国から日本に伝わりましたが、そのため坐禅の教えも漢字によるのが普通で、一般の人たちには分かりにくいものでした。そこで、白隠は坐禅の素晴らしさを七・五調の和文で表現したのです。

 まず、白隠は尊い心が自分の中にあり、この心をつかむ手段が座禅だと説きます。

衆生(しゅじょう)本来仏なり(人は誰もそのままで仏である)

水と氷の如くにて(それは水と氷のようなもので)

水を離れて氷なく(水がなければ、氷ができないのと同じように)

衆生の外(ほか)に仏なし(人の他に仏はいない)

衆生近きを知らずして(人は、仏がすぐ近くにいるのに気づかずに)

遠く求むるはかなさよ(遠くばかり求めているが、なんと愚かなことだ)

譬(たと)えば水の中に居て(譬えて言えば、それは水の中にいながら)

渇(かつ)を叫(さけ)ぶが如(ごと)くなり(のどが渇いた、と叫ぶようなものだ)

長者(ちょうじゃ)の家の子となりて(裕福な家の子に生まれながら)

貧里(ひんり)に迷うに異(こと)ならず(貧しいと悩んでいるのと同じことだ)

…

*比喩や譬えの文が並び、輪郭がはっきりしない朦朧体のようです。

 禅は禅定(ぜんじょう)とも呼ばれ、心を静め、落ち着かせる方法です。心は不思議なもので、喜んだり、怒ったりとその状態を変え、つかみどころがありません。自分のものでありながら、思うように使いこなすことができないのが心です。それでは、なぜこの心は変化するのでしょうか。釈迦は「これがあれば、あれがある。これが生ずれば、あれも生ずる。これがなければ、あれもない。これがなくなれば、あれもなくなる。」と言います。不安や迷いの気持ちがあれば、そこには「原因」があります。その原因を知り、それを取り除けば、不安や迷いはなくなります。

 

六趣輪廻(ろくしゅりんね)の因縁(いんねん)は

(私たちは地獄餓鬼、畜生、修羅、人間、天上(てんじょう)の6つの迷いの世界を行ったり来たりしている。その原因は)

己(おのれ)が愚痴(ぐち)の闇路(やみじ)なり

(自分の中の仏に気づかない愚かさであり、暗やみの道である)

闇路(やみじ)に闇路を踏(ふ)み添(そ)えて

(暗やみの道を次から次に歩き続けて)

いつか生死(しょうじ)を離(はな)るべき

(いつ生きていくことの苦しみや、死への恐怖を乗りこえることができるのか)

夫(そ)れ摩訶衍(まかえん)の禅定(ぜんじょう)は

(そこで自分だけでなく、あらゆる人を救おうという坐禅は)

称歎(しょうたん)するに余りあり

(ほめたたえても余りあるほどである)

 このように、坐禅和讃は坐禅のすばらしさを説いたものです。白隠は「自性(じしょう)は無性(むしょう)である」と説いています。これは、「感覚できる物ははっきりしているようで、実はよく分からない」という意味です。自分と他人との違いはどこにあるのでしょうか。顔や性格など表面の部分を取り除いて、残った「自分」は、他人と何も変わらないことに気づきます。坐禅をすると、何も考えないことはできない、ということに気づき、そこから坐禅がスタートします。

 

(3)白隠の試み:隻手の声

 まだ、白隠の話は続くのですが、彼が具体的に坐禅を通じて仏教の考え方を易しく述べようとしていることは十分に伝わったと思います。越後も信州も福井に近く、福井には曹洞宗の永平寺があります。そのためか、私たちは師の栄西より弟子の道元の方に親しみを持ってきたようです。実際、高田の寺町や飯山市には曹洞宗の寺院が数多くあります。妙高市でさえ曹洞宗の寺院があります。でも、現在臨済宗の寺院は飯山市に一つあるだけです。その一つとは白隠が修行した正受庵です。日本の浄土真宗の信徒は1500万人を越え、曹洞宗でも367万人ですが、臨済宗は100万人ほどしかいません。私たちの禅宗に対するイメージは京都五山や鎌倉五山を核にした文化的なものに偏りがちですが、白隠は臨済宗を庶民の仏教に近づける形で再興しました。

 白隠は臨済宗中興の祖で、自ら「隻手(せきしゅ)の声」という公案をつくり、多くの出家、在家を導いたと言われます。修行に公案を用いるのは臨済宗と黄檗(おうばく)宗で、曹洞宗は基本的に用いません。曹洞宗は「行持(ぎょうじ・身のこなし)」に絞って仏の作法を真似るのに対し、臨済宗、黄檗宗では行持だけでなく心の動きまで仏に倣おうというのです。隻手の声(せきしゅのこえ)、あるいは隻手音声(せきしゅおんじょう)という白隠が創案した禅の代表的な公案の一つを見てみましょう。

「両掌打って音声あり、隻手になんの声やある。隻手の声を拈提(ねんてい)せよ」

(「両手を打ち合わせると音がするが、片手にはどんな音があるのか。それを報告しなさい」)<両手があっても、打ち合わせなければ、音はしない>

 臨済禅は初関と言われる公案によって、禅僧としての威儀や作法だけでなく、心の在り方も習得させようとします。「狗子仏性(くしぶっしょう)(趙州(じょうしゅう)無字)」という伝統的な公案はその代表的なものです。ある僧が趙州和尚に「狗(いぬ)にも仏性はありますか」と問います。すると、趙州は「無」と答えます。では、その「無」とは何でしょうか。実際に弟子たちをつかってこの公案を試し、白隠は「隻手の声」の方が「狗子仏性」よりも導きやすい、肚(はら)に落ちやすいと自讃しています。

 私たちの脳は二つの異なる働き方をしています。一つは知識を使い、論理的に分析し、結論を導く働きで、合理的知識のシステムがその結果です。ところが、そうした理性的認識や分別ではなく、「瞑想知」、「直観知」とも呼ぶべきもう一つの脳機能があり、その機能を取り戻すための手法が禅なのです(瞑想知や直観知と呼んでも、その正体はよくわかりません)。そこで、臨済宗の公案体系を組み直した白隠禅師は、新たな問題として「隻手音声(せきしゅおんじょう)」を創作しました。「両手を打てば音がする。ならば、片手ではどんな音がするか、聞いてこい」という公案です。

(「隻手布袋図」(1766(明和3)年)は白隠が考えた代表的な公案に基づく絵で、まさに禅問答の典型。)

 今の子供たちなら、「片手では拍手ができず、音が出ないが、片手でも握手ができ、壁を打つ、机をたたくことができ、音が出る」と答え、拍手とは違う音なら、片手でも出せると答えるでしょう。

 

 仏教における悟りはこの世界の本質や、人間の苦しみの原因と解決法を理解することで、悟りに至る方法の一つが座禅でした。信じるも悟るも、それらを知らないことには語ることも告げることもできません。そのためか、カウンセリングやメディテーションは医学的治療や行動を助けるために使われていて、それだけで新しい行動が生まれるとは思われていません。