二つの慧可断臂図

 「武帝は527年達磨を招聘し、金陵(現在の南京)で相見した。その際の「達磨廓然の話」は『碧厳録』の第一則。善行に報い(功徳)はなく、何が功徳かは人には判断できない。「聖諦第一義(仏教の根本真実・最上最高の真理)」は「廓然無聖(中は何もなく、廓然、すなわち、がらんとして聖(ほとけ)もない)」。それは「不識(人間の意識で分別する問題でない)」。この問答によって、達磨は武帝がその器でないことを知り、揚子江の北にある魏へ去った。」ここまでが第一則。「聖諦第一義」、「廓然無聖」、「不識」がそれぞれ何を指すか、曖昧模糊としていて、第一則からしてこの調子ですから、禅宗が体験的、直観的、実践的な仏教であることがわかります。

 さて、達磨は洛陽(魏の都)に着き、嵩山の少林寺で終日坐禅して過ごしました。インドから中国へ禅を伝えた達磨が、少林寺で面壁九年(岸壁に向かって九年間座禅し続ける)の修行を行っていたとき、神光という僧が入門したいとやってきます。その時の逸話が慧可断臂(えかだんぴ)です。神光の願いに達磨は見向きもしません。神光は決意を示すために自分の左腕を切って達磨に差し出します。それで達磨は入門を許し、慧可という名を与えました。この慧可が達磨の跡を継いで、禅宗の二代目となります。

 慧可が切り落とした左手の付け根は、血で汚れ、達磨と神光との間の火花を散らす様子を描いたのが雪舟の「慧可断臂図」です。画僧雪舟の、禅に主題をとった最後の作品で、明応5年(1496)77歳の筆になる国宝。一方、臨済宗中興の祖である白隠の達磨は円相の中に描かれ、左手を切る寸前で、「自分の手を切って心眼を開くなど、無駄な行いだ」という賛をつけています。雪舟へのアンチテーゼかも知れません。二つの絵は禅宗の懐の深さを示すのか、自由を表すのか、凡夫には分かりかねます。蛇足ながら、白隠は1708年に高田の英厳寺性徹のもとで開悟。その後、飯山の道鏡慧端のもとで大悟。

雪舟「慧可断臂図」1496 愛知 斎年寺蔵、白隠慧鶴「慧可断臂図」江戸時代 大分 見星寺蔵

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