高田と飯山の白隠

 道鏡慧端(どうきょうえたん、1642-1721)は江戸時代の臨済宗の僧侶。道鏡慧端の別名は正受(しょうじゅ)老人。彼が終生を過ごした庵が正受庵で、(今でも)禅道場として有名です。道鏡慧端は真田信之(幸村の兄)の子で、飯山城で生まれ育ち、江戸や東北各地の寺院で修行を積みました。帰郷した道鏡慧端のために飯山城主松平忠倶(ただとも)が飯山にこの庵を造りました。彼はまた臨済宗中興の祖といわれる白隠慧鶴(はくいんえかく)の師としても知られています。現在の本堂は1847(弘化4)年の善光寺地震の後に再建されたもので、正受庵は現飯山市大字飯山上倉にあります。

 白隠慧鶴(はくいんえかく、1686-1769年)は臨済宗中興の祖とされ、五百年に一人の名僧とまで言われ、「駿河には過ぎたるものが二つあり 富士のお山と原の白隠」と謳われました。駿河国原宿(現静岡県沼津市原)の長沢家の三男白隠は、15歳で出家、諸国を行脚し、24歳の時に高田の英巌寺で鐘の音を聞いて悟りを開いたと自認し、信濃飯山の道鏡慧端の厳しい指導を受け、本物の悟りを完成させます。そして、曹洞宗黄檗宗と比べて衰退していた臨済宗を復興させました。

 この辺の経緯を見直してみましょう。高田英巌寺8世は性徹で、1701(元禄14)年英巌寺8世となり、同時期に臨済宗総本山妙心寺283世紫衣和尚となります。白隠は英巌寺生鉄の名声を聞き「人天眼目(中国禅宗各宗派の宗義を示した著作)」の講に参加します(高田のどの辺に英巌寺があったか、よくわかりません)。1708年性徹のもとで「趙州無字」の公案などで日夜研鑽し、遠寺の鐘声を聞いて大悟したのが白隠24歳の時です。しかし、生鉄はこれを認めず、信州飯山で生涯師と仰ぐ正受老人と出会うことになります。

*「趙州無字」の公案

趙州和尚は中国禅宗の大物。その趙州に一人の僧が「犬に仏性が有るのか無いのか」と問います。趙州はにべもなく、「無」と答えました。常識によれば、「一切衆生悉有仏性」(一切のものには仏の性質がある)です。ところが、趙州和尚は意外にも「無」と言い放ったのです。犬にも仏性が有る筈なのに何故趙州は「無」と答えたのでしょうか。その「無」とは何なのか、何を意味しているのか、というのがこの公案のねらいで、『無門関』の第一則「趙州狗子」です。臨済宗の看話禅では修行者に対してまず課せられるのがこの公案です。

 

 白隠は信州飯山の道鏡慧端(正受老人)を訪ねたのですが、自惚れを見抜かれ、罵倒され、厳しい修行を課せられました。白隠が正受庵の慧端を訪れた理由は、高田英巌寺で聴講していた白隠は鐘の音を開いて悟りを開いたと主張するのですが、聴講に同席していた慧端の弟子の宗覚が白隠の慢心ぶりを危ぶみ、慧端を訪れることを勧めたからでした。慧端は来庵した白隠の慢心を見抜き、山門から上ってきた白隠を蹴落として、その慢心を打ち砕いたのです。慧端は、時には廊下から蹴落しさえする辛辣な仕方で白隠を指導し、最後には白隠も正受に認められるのです。

 このように、白隠は高田で悟り、飯山で悟り直すことになるのです。越後も信州も臨済宗が盛んな地域ではなく、曹洞宗真宗に比べると寺院数は圧倒的に少数です。その状況で白隠が悟るというのは稀な出来事だったと言えます。