白隠の「慧可断臂図」

 「雪舟の抽象画」の*の問いに対してヒントになるのが白隠(はくいん、1685-1768)の「慧可断臂図」。墨画で仕上げた白隠の「慧可断臂図」では、達磨を円の中に描くことでその崇高さを象徴的に表現しています。歯を食いしばって左腕を差し出す神光(慧可)の姿が描かれています。江戸時代の臨済宗中興の祖白隠の筆によると随分趣が異なります。

 慧可が切り落とした左手の付け根は、血で汚れ、達磨と慧可との間の火花を散らす様子を描いたのが雪舟の「慧可断臂図」。画僧雪舟の、禅に主題をとった最後の作品で、1496(明応5)年77歳の筆になる国宝。一方、白隠は「自分の手を切って心眼を開くなど、無駄な行いだ」という賛をつけています。雪舟へのアンチテーゼかもしれません。二つの絵は禅宗の懐の深さを示すのか、勝手な自由さを表すのか、意見は分かれます。

 白隠は1708年に越後高田の英厳寺性徹(しょうてつ)のもとで開悟、その後、信州飯山の道鏡慧端のもとで大悟したと伝えられています。その辺の経緯を見直してみましょう。田原藩3代藩主の戸田忠昌は1664(寛文4)年に肥後富岡への転封から始まり、忠昌の子・戸田忠真は1701(元禄14)年に越後の高田へと所替えになりました。移封の都度、英巌寺(臨済宗)も移動し、転封先に英巌寺が建てられました。高田時代の1708(宝永5)年に白隠慧鶴が英巌寺に入門し、性徹和尚の下で(師は認めていませんが)大悟を得たと自称したのです。大悟したと慢心した白隠信濃飯山の正受庵(現飯山市大字飯山上倉)の道鏡慧端(どうきょうえたん)から厳しい手ほどきを受けて、真の悟りに至ることになります。

 白隠は絵を趣味として描いたわけではなく、また芸術作品として描いたわけでもありません。絵のほとんどすべてに仏教の教えを思わせる賛が付されていて、白隠はこれらを教化の手段として描いたことがわかります。白隠の絵が「禅画」と呼ばれるのは、彼の絵が禅の境地を伝えることを目的に描かれた、宗教的な背景をもつからです。

白隠慧鶴「慧可断臂図」江戸時代 大分見星寺蔵

**禅画と禅問答には似た点があります。異安心(異端)としての新井の願正寺と高田の浄興寺の論争と『碧巌録』や『従容録』といった公案集の問答との違いが雪舟白隠の絵画の違いに繋がっているように思えます。