鬼について私が考えてきたこと:追想(3)

(1)鬼と龍、そして神や仏

 宮尾登美子の『鬼龍院花子の生涯』の「鬼龍院」は架空の苗字のようですが、今では「鬼龍院翔」のせいか、意外にポピュラーです。「鬼龍院」という名字は、鹿児島県にあった薩摩国日置郡鬼龍院村が起源とされ、薩摩藩佐土原藩にあった名字です。「鬼龍」は非常に堅い「イスノキ」(柞)の当て字です。この木が生えている場所に米を貯蔵する蔵(院)を建て、当初は「イスイン」と呼んでいたが、時代と共に「イス」に「鬼龍」の字が当てられ、「鬼龍院」へと変化していったと言われています。

 鬼伝説は能の「紅葉狩」から生まれたという乱暴な推測がありますが、鬼より古い化け物が龍です。慈円の『愚管抄』を具体化、演劇化した世阿弥の「夢幻能」には冥(みょう)の代表として鬼が多く登場しますが、龍の登場は少なく、「春日龍神」は数少ない一曲です(鎌倉時代の高僧明恵上人が天竺の仏跡参拝を決意し、暇乞いのため春日社に参詣する。春日明神の使いの宮守は春日山が霊山浄土だと引き留め、渡天を思い止まった明恵上人に龍神が釈迦一代を再現してみせるという曲)。

 出雲の国でスサノオノミコトに退治されたのがヤマタノオロチヤマタノオロチの正体は川の氾濫、盗賊の襲来、出雲の国そのものと諸説ありますが、実在したものの喩えと考えるならば、斐伊川、出雲の国ではないかと考えられています。九頭龍伝説は日本各地に残る九頭龍(大神)に関する伝説。その一つが戸隠神社で、境内の奥に九頭竜神社があります。九つの頭をもち、龍の尾を持つ鬼がいて、村を襲っていました。村人に頼まれた修行僧はこの鬼を見事に成敗。鬼は岩戸の中に閉じ込められ、やがて改心し、神となります。龍は鬼の一種で、それが神になるという伝説も意外に新しいことがわかります。

 仏教の八大龍王は仏法の守護神として登場します。八大龍王は仏教世界では釈迦の眷属(けんぞく、仏,菩薩につき従う者)として描かれています。八大竜王観音菩薩の守護神となり、人々にご利益をもたらします。八大龍王の物語は意外に古く、九頭龍とは何のも関係ありません。

 今の私たちには龍より鬼の方が親しみ深いのですが、その理由の一つは能にあります。世阿弥は夢幻能を確立する際に冥界の対象として龍より鬼を好んだのです。それは彼の芸術的な理由からです。蛇に関わる龍に対して、変幻自在に扱うことができる鬼の方が舞台構成に優れていたからという、とても近代的な理由なのです。

 

(2)鬼と『般若心経』:再訪

 「魂」という文字の中に「鬼」という字が入っている理由は僧侶でなくても、知りたくなります。「魂(たましい)」は、「云(雲や霧のようなもの)+鬼」で、つまりは、死者の魂、怨霊です。死後に昇天する「たましい」が「魂」で、暫く地上に留まる『たましい』が「魄(たましい、ハク、骨を表す白+鬼)」です。魂の「鬼」は、現在の「霊」とほぼ同じ意味です。人は生きたままでも鬼になり、人を苦しめ、殺します。ですから、人は時には鬼より怖い存在なのです。

 

鬼となり この世見つめて 冬の月

鬼の性 皆に嫌われ この世では 住むところなく 旅を続ける

 

 鬼が悪役としての「おに」の意味を持つのは、漢字ができてからかなり後で、仏教の考え方が入ってきてからです。二月三日の節分の夜、「鬼は外」と煎り豆を打っています。この風習は室町時代の公家の家から起きたとされています。それが公家達の間で広がり、やがては庶民に伝達されたとされ、それほど古い話ではありません。

 日本人の大多数は仏教徒で、『般若心経』は広く知られています。この経典は釈迦の教えのダイジェスト版です。「般若」は古代インドの言葉であるサンスクリット語梵語)の「プラジュニャー」やパーリ語の「パンニャー」に由来する仏教用語で、これらの言葉の音に合わせて漢字を当て、「般若」と書くようになりました。意味は「仏の智慧」です。仏の智慧は修業を積み、その結果として得られる悟りです。ですから、能の般若面が暗示する鬼女とは随分違います。

 智慧と知恵は音が一緒ですが、意味は異なります。智慧は世の中の真理を知ることを指す言葉で、時代によって変化しない普遍的なもの。一方、知恵は頭が良い、賢い、優れているといった意味を持ち、時代とともに変化します。仏教では、私たちはもともと、仏の智慧を授かって生まれてくるとされています。しかし、生きていく上で生じる煩悩によって、智慧を見失ってしまいがちです。そのため、仏の智慧とは学問のように学ぶものではなく、自分自身の中にあって気づくものとされています。

 『般若心経』はその仏の智慧を説く経典。般若心経は大乗仏教の根本経典とされ、真実や本質を見抜く力によって悟りの境地にいたるための大切な教えです。300文字足らずの短い経典ですが、大乗仏教の中核となる思想の一つである「空(くう)」の思想が要約されています。空は「から」のことではなく、「実体がない」ことを指します。空の思想とは「無常」つまり「この世に常なるものはない」と悟ることです。それが「色即是空・空即是色(色は空、空は色である)」という名句で表現されています。

 

(3)節分に

 「節分」は文字通り「季節の分かれ目」のことで、立春立夏立秋立冬の前日が節分で、年に4回あります。春の節分だけが現在まで残っていますが、その理由はこの日が一年の初めと考えられていたためです。私たちにとって年の初めは新暦の1月1日ですが、昔の人々にとっては、冬至、旧暦の1月1日、春の節分の三通りありました。ですから、立春の前日(通常は2月3日)は節分で、「豆まき」で鬼を追い払い、福を招く除招福が行なわれてきました。

 宮中で大晦日に行なわれていた「追儺式(ついなしき)」が豆まきの始まりで、それは「災いを鬼に喩え、悪鬼を追い払い、疫病を取り除く」という中国伝来の儀式でした。平安時代追儺は方相氏と呼ばれる鬼役が手下役の役人を引き連れ、宮中をまわり、厄を払うものでした。当初は悪鬼を祓う善神でしたが、9世紀頃には疫病の象徴である悪鬼に変わり、弓矢で追われることになりました。豆まきは中国明時代の風習で、日本伝来は室町時代。年男が「鬼は外、福は内」と言いながら、炒った豆をまきます。豆は「魔を滅する」から「魔滅(まめ)」になったという説があります。

 「魂(たましい)」は、「云(雲のようなもの)+鬼=怨霊」。死後に昇天する「たましい」が「魂」、しばらくの間地上に留まる『たましい』が『魄(たましい、ハク、骨を表す白+鬼)』。人は死んだら鬼になると考えられていましたが、人は生きたまま鬼になり、人を苦しめ、殺します。そして、人は時には鬼より怖い存在。

 私の中の鬼の正体は何でしょうか。大人になった私には仏教と鬼とが知識レベルで結びついています。でも、私が子供の頃の鬼はもっぱら怖い存在でした。では、鬼は悪者だったかと問われると、どうもはっきりしません。そのためか、今でも持国天増長天広目天毘沙門天の四天王の像の足元で踏みつけられたままの鬼の姿は悪者とは思えず、かわいそうな気さえします。仏法に逆らった古代インドの神「夜叉」は釈迦に調伏され、護法善神として神将(仏の戦士)になります。彼らの家来が邪鬼で、かつては夜叉神の命令で悪さをしていましたが、邪鬼も四天王に調伏され、踏みつけられます。法隆寺金堂の四天王や東大寺戒壇堂の四天王に踏まれている邪鬼は表情豊かで、どこかユーモラスに思えます。これは私が育った環境のためなのでしょうが、今の子供なら鬼をどのように思うのか、これまた私には謎なのです。

 日本の「鬼(オニ)」に対して、中国の「鬼(キ)」は随分異なります。中国の鬼は悪霊や亡霊そのもの。当然ながら、中国の鬼は霊魂で、身体がないのですが、日本では早くから擬人化され、様々に画かれ、具体的な姿を与えられてきました。日本では、鬼はいったん味方になってくれたら、その強さゆえに、災厄を払い、幸福さえもたらす存在に変わったのです。

 私を含め日本人は小さい頃から、鬼が登場する昔話に親しんできました。「桃太郎」に出てくる鬼は鬼ヶ島に住んでいて、乱暴な悪者のために退治されてしまいます。「一寸法師」に出てくる鬼は身長3センチの一寸法師を飲み込み、腹の中で針を刺されて降参し、落とした「打ち出の小槌」で一寸法師は大きくなることができました。また、旅人を殺して食べてしまう鬼婆の「やまんば」や節分で「鬼は外」と追い払われる鬼もよく知られています。これらの鬼は人の心にひそむ怨みや憎しみのシンボルです。

 現在の鬼の一般像は、赤鬼や青鬼で、頭に角が生えていて、耳までさけた口から牙が生えています。鬼のイメージは日本古来のものでも中国のものでもなく、大乗仏教が元になっています。仏教では、六道の中の餓鬼道の衆生が鬼と言われ、地獄の守衛です。鬼は六道の中でも最も苦しい地獄で、罪を犯した囚人を管理する守衛。『往生要集』には鬼が地獄の守衛として描かれています。例えば、地獄に堕ちた囚人を金棒で打ち、刀で切り裂きます。このように地獄で罪人を苦しめるのが仏教での鬼。

 地獄の鬼たちは一体何を表しているのでしょうか。鬼は欲望に満ちた心の喩えです。青鬼は限りない欲の心を表しています。赤鬼は燃え上がる怒りの心を表しています。黒鬼は腹黒い怨みやねたみの心を表しています。地獄や鬼は私たちの欲望や怒りや愚痴の心が作り出したもので、いずれも心の産物であるというのは仏教独特の心理分析の結果であり、大乗の方便の一つとも言えます。

 私の中の鬼は仏教的、中国的、民俗的な要素が絡み合い、それぞれの特徴を保持しながら、心の中で生き続けてきたようです。

 

(4)鬼の本性

 鬼は(1)祖霊や地霊、(2)天狗、(3)邪鬼、夜叉、羅刹などに分けられますが、ここにも神仏習合が浸透していて、様々な要素が混淆しているのが日本の鬼。元々は死霊を意味する中国の鬼が6世紀後半に日本に入り、日本に固有の古来の「オニ」と重なり、「鬼」になりました。古来の「オニ」は祖霊や地霊であり、「一つ目」の姿をもち、死霊というより民族的な神の姿を彷彿とさせます。また、説話の「人を食う凶暴な鬼」のイメージは平安時代の人々が冥や闇に感じていた恐怖の具体化でした。

 鬼は顕の世界に侵入する冥界の存在。平安時代から中世にかけての説話に登場する多くの鬼は怨霊の化身や人を食べる怪物です。京都の大江山には酒呑童子と呼ばれる鬼の親分が住み、京の町で拉致した若い女性の肉を食べていました。社会不安の中で頻出する人の死や行方不明は冥界の鬼の仕業と解釈されました。鬼は冥界から来訪者し、人を向こう側の世界に拉致する悪魔でした。

 平安時代には経典に鬼が描かれ、人々に大きな影響を与えました。『源氏物語』に登場する鬼は怨霊で、女性の姿で出てきます。能の世界には様々な鬼が登場します。鬼退治の能には「紅葉狩」、「土蜘蛛」、「大江山」などがあります。人の情念が鬼となる能には「道成寺」、「葵上」、「安達原/黒塚」などがあります。また、「土蜘蛛」や「大江山」は土蜘蛛や酒呑童子という鬼を退治する英雄譚です。「道成寺」や「葵上」では、想い人に裏切られた女性が鬼女になってしまいます。「安達原/黒塚」」では、鬼として生きてきた自分への深い後悔と、それを隠したかったのに暴露されてしまう老婆の悲しみが描かれています。

 こうして、冥と顕との習合によって人と鬼とが共存し、交流し合う世界が現出し、それが中世の世界となり、現在までつながっています。

 

(5)『愚管抄』からの夢想

 大隅和雄(『愚管抄』、全現代語訳、講談社、2012)は『愚管抄』における「冥顕」を「目に見えぬ神仏の世界と、人間の世界」と訳しています。また、慈円が「「冥」の世界を構成するものを「冥衆」と名付けた」とし、同書における冥衆として「皇祖神である伊勢大神宮=天 照大神と藤原氏の祖神である春日大明神=天児屋根命」と「化身・権化の、「怨霊」、そして「天狗・地狗・狐・狸などの邪悪な魔物」の四つを挙げています。冥とは目視できない世界のことであり、仏神と権者、怨霊、邪鬼の四つが冥衆だとする大隅説は末木文美士池見澄隆によって通説となっています。近年では、この理解が『愚管抄』以外の冥顕論にも適用されつつあります。でも、『愚管抄』における「冥」は不可視の意で、不可視の怨霊邪鬼なども冥衆だという理解は臆測だという考えもあります。

 『愚管抄』は冥然たる道理と顕然たるそれの離合によって歴史を叙述しようとしました。仏神は道理を変更しますが、そのような冥の道理を人はうまく理解できず、世はますます乱れていき、それでも学問を積めば、冥顕の道理を理解できると考えられました。

 平安末期に天狗は憑依する怨霊だという考えが広がりました。団塊世代の私には「牛若丸と天狗」や大佛次郎の『鞍馬天狗』で親しみのある「天狗」ですが、天狗の古い一例が仏道を妨げる「天魔」でした。『源平盛衰記』の後白河法皇住吉大神との天狗問答に「天魔という鬼を天狗と呼ぶ」とあります。天狗には六つの神通力があり、人なら誰もが潜在的、可能的に持っている能力を顕在化、実在化したものと言われています。

 そこで、天狗、あるいは天魔の能力がどのようなものかをまずは数学的に夢想してみましょう。無限には可能無限と実無限(Potential Infinity and Actual Infinity)があり、現在の数学では両方の無限が自由に使われています。限りなく続く無限小数を考え、それが完結した数列になっているとしてみましょう。完結していると認識できるのが冥界にいる神通力をもった天狗です。でも、人間の視点で数列を捉えた場合、どこまでいっても終わらず、ただ限りなく続くだけです。これが可能無限です。つまり、天狗は完結した無限を経験できるのですが、私たちは終わりのない可能無限しか経験できないのです。ですから、経験主義者のアリストテレスは可能無限しか認めませんでした。

 冥界の天狗は顕界にいる私たち人間より能力が高く、実無限を実際に経験し、理解することができます。でも、私たちは具体的、構成的に実無限を作り出すことができません。ですから、顕界では自然数や実数は限りなく続く可能無限として構成することしかできず、自然数の集合や実数全体という実無限は物理的なものではなく、数学的な存在ということになります。でも、冥界の天狗は無限を完結した対象として経験し、認識できるのです。

 任意の数xについて、その数が自然数なのか、整数なのか、有理数なのか、無理数なのか問われたとしましょう。まず、この数xが0.・・・・・のような、0より大きく、1未満の数なら、この数は有理数無理数のどちらかです。でも、どちらなのか判定する術がありません。有理数の定義によれば、その数が、途中で終わっているか、または小数部分のどこかから、数の並びが循環になっているかのどちらかなら、それは有理数です。このとき、0.2を0.1999999・・・・とするなら、有理数は小数部分のどこかから数の並びが循環している数と考えることができます。循環の代表例に1/7があり、1/7=0.142857142857142857・・・・というように142857が無限に繰り返される部分がみつかれば、それは有理数だと判定できます。

 では、与えられた数x有理数無理数かを可能無限の立場から考えてみましょう。与えられた数xは最初の小数第一位から順にどこまで見ていっても循環する部分が見つからない場合、これは実数であると判定していいでしょうか。小数第n位までは循環している部分は見つかっていないということしか言えず、もしかしたら、小数第n+1位からは循環しているかも知れません。これでは、いつまでたっても有理数無理数か決められません。そもそも実数を確定的に存在させることができないのが可能無限なのです。

 でも、実無限なら、与えられた数x有理数無理数かを判定できます。なぜなら、天狗の視点で見れば、無限に続くか否かが容易に見てとれるからです。無限につづく小数部分さえ、それはすべて決まっており、それゆえ、天狗には分かっています。無限につづくものがすべて分かっていれば、それが有理数無理数かの判定は簡単です。このような実無限の存在を保証しようというのが公理的集合論ZFの無限公理です。無限公理は、

 

0を含むある集合があり、しかもある数nがその集合のメンバーなら、その次の数n+1も同様にその集合のメンバーであるような集合「自然数」が存在する、

 

と主張しています。「自然数という集合が存在する」と宣言することによって、自然数という無限にある数のすべてを含むものとして完結させています。

 しかし、実無限は矛盾を孕んでいます。例えば、実無限を認めると、自然数のすべての数が書き尽くせることになります。限りなく続くものが、全て分かっていると考えるのは、人間には理不尽です。でも、このような理不尽な実無限を認めることによって無理数の存在が結果します。私たちには無理数は実無限によって理不尽に生み出されたものであっても、天狗には無理数は実無限によって正当に生み出されたものなのです。

 実数は自然数にない性質を多くもっています。最も実数らしい性質が「完備性(completeness、連続性)」(*)であり、この性質のお陰で微積分が可能となり、それを使って自然を連続的に考えることができています。連続する時間や空間を表現するのに最も適した実数は数学者の関心の的となってきました。ギリシャ人が使わなかった実数こそ古典物理学の不可欠の表現装置として使われ、まずはニュートンライプニッツの無限小(infinitesimal)、次にコーシーの極限(limit)といった概念を通じて実数の理解が浸透していきました。

*「完備性」は私たちが天狗擬きになるための性質なのです。

 次は物理学的な夢想です。古典的な世界は驚きのない世界だと私たちは考えてきました。私たちが生活する世界は驚くことが次々起こる世界だと思っていますが、古典物理学が描く世界には驚くべきことは何もないと思っています。なぜでしょうか。

 対象の運動変化には不変と可変の二つの性質があり、運動は変化が最小になるように起こります。粒子の不変的側面はその質量と電荷によって完全に記述され、質量も電荷も粒子のもつ加速度によって定義されます。電荷と対照的に質量は常に正で、質量によって粒子の環境との相互作用が、電荷によって放射との相互作用が記述されます。粒子の可変的側面はその状態で、位置と運動量、あるいは角運動量と方向を使って完全に記述できます。状態の変化は連続的です。これら可変的側面は3次元のベクトルによって完全に表現でき、すべての可能な状態の集合は「相空間」と呼ばれ、物体の状態はそれを構成する粒子すべての状態を知ることでわかります。

 粒子の変化は観測者とは独立していますが、その状態はそうではありません。異なる観測者によって見出される状態は相互に関連があり、この関係が運動の「法則」と呼ばれています。例えば、時間が異なる場合、それらは時間発展の方程式(evolution equations)と呼ばれます。異なる位置や方向の場合、変換関係(transformation relations)と呼ばれます。そして、異なるゲージの場合、それらはゲージ変換(gauge transformations)と呼ばれます。質量のない対象の運動、つまり、放射も観測される。日常生活で見られる放射は光で、それは電磁波として伝播します。質量のない対象の速度は自然の中の最大速度で、すべての観測者に対して同じです。放射の状態は電磁場の強さ、位相、極性化、カップリングによって記述されます。

 電荷は他の電荷を加速し、電荷は長さと時間を定義するのに必要です。電荷は電磁場の源です。光もそのような場です。光は最速の速さで動きます。物体と違って、それは相互に貫通可能です。要するに、対象の運動には二つのタイプがあり、一つは重力、他は電磁場によるものです。そして、後者だけが真の運動です。

 結局、古典物理学は私たちに運動が保存されることを示しました。運動は連続的な実体に似ています。それは決して壊れず、けっして造られませんが、いつも分布が変わります。保存則によって、すべての運動は予測可能で、可逆的です。運動の保存によって、私たちは時間と空間を定義できます。さらに、古典的運動は左右対称的です。まとめれば、日常生活の経験とは違って、古典物理学は運動が予測可能なことを示しました。つまり、自然には私たちが驚くべきことは何もないのです。

 古典力学は無限概念を使った運動の完全な記述で、驚くべきことはありません。どんな古典的概念も、無限小も無限大も存在すると仮定して考えられています。特殊相対性理論はまだ無限の速度を許し、一般相対性理論ブラックホールに可能な限り近づくことを許しています。電磁気学と重力の記述では積分微分は無限にある中間の段階の省略です。さらに、無限が決定論を含意することもわかります。でも、物理学を無限に基づいて展開することが正当化できるわけではありません。というのも、物質の原子的構造は無限小の存在を、宇宙の地平は無限大の存在をそれぞれ疑問視させるからです。

 

(6)鬼百合の執念

 どのユリも花が大きく立派である。花粉を媒介してくれる大型のチョウやガのためにサイズを合わせているからと言うのが適応的な説明。下向きに花を咲かせ、蜜を吸いにくくし、さらに雄しべや雌しべを長くつき出している。訪れたチョウやガは雄しべや雌しべを足場にしてぶら下がり、羽ばたかせながら蜜を吸う羽目になる。その結果、蜜を吸うことで、身体が花粉だらけになってしまう。花粉には粘り気があり、チョウやガの体に吸着する。ユリの花粉が手や衣服につくと、それをなかなか取ることができない。花粉は私の手のひらに染み込んだかのようで、何度洗っても落ちない。それと同じことがチョウやガの翅にも起こっている。

 

 鬼百合の 執念示す 花粉つき 腕を染めたる 刺青の如く

 鬼百合の 枯れなんとして 鬼々し(寺田寅彦

 鬼百合の これみよがしの 蕊の反り(鷹羽狩行)

 一日過ぎ 百合の花粉の とれぬまま(星野早苗)

 

 能に「鞍馬天狗」、「黒塚」、「山姥」という曲があるが、天狗、鬼、山姥のどれかが共に登場する曲はない。だから、三者が互いに戦って、いずれが強いのかはよくわからない。冥界の存在が互いにどのような関係をもつかは曖昧そのもの。顕界の人間社会のような互いに密接な相互関係はなく、それゆえ、互いの人間臭い関係などなく、それが冥界の特徴になっている。顕界にある異種格闘技は冥界にはなく、それゆえ、いずれが強いか、弱いかの判定はできない(「鬼滅の刃」のような作品の中では可能だが…)。

 山姥は女性の妖怪で、山に入った女性が山姥となったと考えられる。僧侶だけでなく、尼僧も、また、俗人の男女も天狗になる。鬼も性別に無関係なので、いずれの妖怪、怨霊も性差別はないのだが、能の曲を見渡すと、圧倒的に女性の妖怪、怨霊が多く、冥界は文句なく女性優位なことがわかる。冥界の存在は次のような立場から解釈されてきた。

 

・冥界の鬼、天狗、山姥を人間の憤怒、懺悔、悔恨の象徴として心理学的に解釈する。

・冥界の対象を形而上学的な存在として理解する。

・冥界の対象を宗教的な存在として民俗学的に了解する。

・文学的な対象として表現する。

 

 これらは独立したものではなく、実際は複雑に入り混じっている。具体的には能の曲、『平家物語』のような文学作品や『愚管抄』のような歴史書に登場する冥界の存在、柳田、折口の民俗学の性格、冥顕論、歴史の大義、仏教的世界観、末法思想神仏習合修験道密教等が雑煮のように複雑に組み合わされている。そして、それらの結果として、山岳地域に伝説として、天狗、鬼、山姥が存在することになっている。

 天狗の飯綱三郎、紅葉狩の鬼、金太郎と山姥はそれぞれ代表的な伝説である。飯綱三郎は平安時代末期に飯縄山に祀られ、軍神として多くの戦国武将に信仰され、全国に広まった。今でも東京の高尾山薬王院や、千葉県の鹿野山神野寺、飯縄寺、栃木県日光市の日光山輪王寺など、各地で熱心に信仰されている。

 信濃国戸隠に鹿狩りにやってきた平維茂の一行が紅葉狩の酒宴に遭遇し、宴に参加した維茂は美女の舞と酒のために不覚にも前後を忘れてしまう。維茂は夢中で、美女に化けた鬼神を討ち果たすべしと告げられ、覚醒した維茂は鬼を退治する。これが能「紅葉狩」の中の鬼。

 山姥の山廻りの曲舞をうまく演じたことから、「百ま山姥」と呼ばれ、人気を博していた遊女が善光寺参詣を志し、その途中で、越中・越後の国境にある境川に至り、そこで本物の山姥に会うことになる。異形の姿の山姥は、深山幽谷に日々を送る自らの境涯を語り、仏法の深遠な哲理を説き、いずこかへ消えていく。これが能の「山姥」。

 いずれも山岳地域が舞台になっていて、冥界が山にあり、そこに異形の鬼、天狗、山姥が存在していることが文学的に表現されていることがわかる。

 既に記した「秋のオニナベナ」にある「オニ」はナベナより大きなことを表す接頭語として使われ、「鬼」が日常生活に溶け込み、使われている具体例の一つになっている。今年も紅葉の季節となり、「紅葉狩り」が話題になり、能の「紅葉狩」の鬼女などを通じて生活の中の「鬼」が浮かんでくる。そこで、鬼についてまとめてみよう。

 次の歌や句は老いた私の心境を素直に表現したもので、人は生きている限り、鬼から離れることができない苦しみを背負っていることを表現したものである。

 

老いた鬼 魂さらし 雪をこき 彷徨い歩く ふるさとの山

魂が 鬼になり落ち 苦しみて 悔いて嘆いて 山焼ける

苦しみに わが身憐れみ 鬼を超え

浄土捨て 鬼に変わるや 我が心

 

 「魂(たましい)」は、「云(雲のようなもの)+鬼」、つまり「怨霊」である。死後に昇天する「たましい」が「魂」、しばらくの間地上に留まる『たましい』が『魄(たましい、ハク、骨を表す白+鬼)』。人は死んだら鬼になると考えられていたが、人は生きたまま鬼になり、人を苦しめ、殺すのである。そして、人は時には鬼より怖い。