築地の今昔:築地本願寺とカトリック築地教会

 中央区の「築地」はその地名の通り、海を埋め立てて築かれた埋立地です。1657年の明暦の大火で浅草の東本願寺は消失します。大火後の復興計画の一環として隅田川河口部が埋め立てられ、そこに本願寺が移転してきました。その後、関東大震災後には日本橋から魚市場が移転し、中央卸売市場として発展しました。また、既述のように明治初期には外国人居留地が設けられました。

 明石町の居留地通りを挟んで、聖路加国際病院、カトリック築地教会、そして区立の明石小学校があり、その明石町に接するかのように築地本願寺があります。ここでは築地教会と本願寺について考えてみましょう。

(築地本願寺)

 本願寺にTsumugiと呼ばれるカフェがあり、人気メニューの「18品の朝ごはん」など、浄土真宗の雰囲気の中で気軽に食事を楽しむことができ、私が好きな場所の一つです。築地の本願寺は浄土真宗本願寺派、いわゆるお西で、しかも西本願寺が直轄する寺院です。本尊は聖徳太子手彫と伝承される阿弥陀如来立像で、住職は門主が兼ねています。2021年浄土真宗本願寺派の新体制移行に伴い、正式名がそれまでの「本願寺築地別院」から「築地本願寺」に変わり、築地本願寺は全国唯一の直轄寺院となりました。

 現在の本堂は東京帝国大学名誉教授で建築史家の伊東忠太が設計したもので、建築研究のためアジア各国を旅した伊東とシルクロードを探検した大谷光瑞(当時の本願寺派門主)との出会いが縁となっています。築地本願寺の建物はインドやアジアの古代仏教建築を模した外観をもち、シルクロードを通じて伝わった仏教のルーツを感じさせます。2014(平成26)年には本堂及び大谷石の石塀と三門門柱が国の重要文化財に指定されました(現在本堂などの修復が行われています)。その本堂で目を惹くのが、「巨大なパイプオルガン」で、1970(昭和45)年に仏教音楽の普及を願い、寄贈されたものです。

 晴海通りを隔てて、築地本願寺の反対側には場外市場が残り、今は外国人旅行者で溢れています。かつては豊洲に移転した築地の魚市場は築地本願寺の門前町でした。

*妙高市の寺院80のうち、浄土真宗本願寺派(西本願寺)23、真宗大谷派(東本願寺)53、その他4の内訳から、浄土真宗が妙高市を席巻。その浄土真宗の7割近くが真宗大谷派。新潟県全体の浄土真宗の寺院数が5割弱であるのに対し、妙高市はほぼ浄土真宗一色、正に浄土真宗の牙城。さらに、浄土真宗の中でも真宗大谷派の数が浄土真宗本願寺派の2倍を優に越し、その勢力の強大さがわかります。このような特徴ある分布には当然ながら歴史的な原因があるはずです。

 浄土真宗に「お西」と「お東」があるのはどのようなことなのでしょうか?まず、西本願寺は豊臣秀吉が造りました。次に東本願寺を造ったのは徳川家康。東本願寺、西本願寺は通称で、西本願寺は龍谷山本願寺、浄土真宗本願寺派の本山。一方、東本願寺は「真宗本廟」と呼ばれ、真宗大谷派の本山(本廟=墓所)。ですから、正確には「本願寺と真宗本廟」なのですが、1987(昭和62)年までは東西とも本願寺を名乗っていたため、「西本願寺」「東本願寺」という区別が実際にありました。

 当時、天下取りにとって重要な問題は影響力の大きい宗教勢力をどのように扱うかということで、それに信長の出した答が「叩き潰す」ことでした。大坂石山本願寺攻略は丸10年にわたる長期戦で、宗教勢力相手に戦うのは実に大変なことでした。石山本願寺は信長に敗れ、法主・顕如らは紀州に流れ、不遇を囲っていました。そこへ、天下を取った豊臣秀吉が「真宗のために寺を建てよう」と申し出ます。もちろん、これは顕如はじめ真宗一団を本当に心配してのことではなく、秀吉は信長とは反対に懐柔策をとったのです。1591(天正19)年に秀吉から現在地を寄進されて本願寺となりました。秀吉に新しい寺を建ててもらった浄土真宗の面々は顕如の死後、派閥争いを起こします。順当なら大坂石山本願寺攻防戦を戦った功労者である教如が後継者になるはずなのに、弟の准如を後継者にしようという一派が現れ、敗れたのは教如。

 さて、教如一派も内心では不満があるものの、寺を追い出されたら行くところがなく、仕方なく准如一派に従っていました。ところが、関が原の戦いが終って2年後の慶長7(1602)年、今度は徳川家康が「隠居させられた教如のために寺を建てる」と言って建てたのが東本願寺。家康は関が原で勝っても、豊臣家はまだ存在し、豊臣シンパの大名もたくさんいます。この状況で家康にとって一番怖いのは、豊臣家が本願寺と手を組んで徳川に対抗してくることでした。そこで家康が考えたのは、「本願寺は内部で二派に別れている。ならばこれを徹底する」ということでした。一つにまとまっていた集団は、二つに割れてしまうと半分の力も出せません。さらに、家康の凄さを示す企みが潜んでいました。本願寺分割に関して徳川家康が仕掛けた「心憎い」措置は、二つの寺を直線距離で約500メートルという、ごく近いところに配置したこと。二つを目と鼻の先に並べることにより、対立するもの同士が毎日顔をつき合わせるように仕向けたのです。これによって対立が持続、外側に向かうエネルギーを内側へと向かわせました。家康は実に狡猾。本願寺派と大谷派は政治的につくられた分裂で、教義の根本的な違いはありません。

(カトリック築地教会)

 1853年アメリカのペリーが来航し、1858年日米修好通商条約が結ばれると、オランダ、ロシア、イギリス、フランスもこれに続きました。外国人が日本に居留し、それと同時にキリスト教が再び日本の地に宣教の根を下すことになりました。

 開国後の最初の教会が1862年横浜に建てられました。東京は1869年になってようやく外国人の居留を受け入れました。現在の明石町辺りがその居留地にあてられます。横浜から派遣されたマラン神父とミドン神父(共にパリ外国宣教会)は1871年秋東京に入り、宣教を始めました。カトリックの宣教はロシア正教や聖公会の伝道より早く始められました。神父たちは稲荷橋に商家を借り受け、仮の教会としました。また、1872年には千代田区三番町にラテン学校(神学校)を開校し、学生は70人余りになりました。さらに、1874年借家の仮教会を出て、築地の居留地内に教会が建てられます。1877(明治10)年日本北緯使徒座代理区の司教に就任したピエール・マリー・オズーフは築地教会に司教座を置きます。同年に煉瓦造りの本格的な聖堂の建設が始まり、翌1878(明治11)年8月15日には完成した聖堂で献堂式が盛大に行われました。この聖堂は、1920(大正9)年に司教座が関口教会に移動するまで、東京大司教区の司教座聖堂でした。でも、1923(大正12)年関東大震災で聖堂が焼失、倒壊してしまいます。その後、1926(大正15)年に新聖堂の建設が始まり、1927年(昭和2年)4月10日に献堂されました。

 現在の聖堂は古代ギリシャのドーリア式神殿を忠実に模し、木造モルタル造で建設されています。なお、旧聖堂時代の石膏の聖ペトロ像は震災の被害を免れ、現在も安置されています。東京都選定歴史的建造物、中央区の区民文化財に指定されています。

 私は年に1、2回しか築地教会にはいかないのですが、ギリシャの神殿風の正面は他の教会とは随分違う印象を与えます。堂内もモルタル造にもかかわらず、円柱が並び、不思議な空間を生み出しています。

 居留地通りを隔てた聖路加国際病院とカトリック築地教会(そして、明石小学校)は共にかつての居留地の歴史を背負っていて、歴史変化が建物とそこでの人の営みを通じて滲み出していることが、とてもはっきりと認識できる(史的な)風景となっています。

*画像から築地本願寺もカトリック築地教会もとても国際的で、しかも歴史的であることがよくわかります。