桜散り 梅はこぼれて 椿落つ 牡丹くずれて 時が過ぎ行く
人は逝き 植物枯れて 獣死ぬ 物は壊れて 万物変わる
なんと殺伐とこの世を描くのかと多くの人があきれる筈の狂歌ですが、昨今の世界は争いが絶えず、殺伐としたゲームが繰り返される諸行無常の世界です。こんな世界が私たちの棲む世界で、万物流転する天変地異の世界です。そんな世界を何十年か生きてくると、過去、現在、未来という違いに妙に敏感になり、その違いを意識し、何を今更と思いながらも、自らの生き方まで妙に気になり出す始末なのです。そして、過去は語り、論じ合うもの、現在は生き、悩み合うもの、未来は想い、願い合うものなどと文学青年風に分類してみたくもなるのです。そんな私の過去、現在、そして僅かばかりの未来について思いを巡らし、案じる時の手掛かり、きっかけ、ヒントを与えてくれる一つが我が故郷なのだと思うのです。故郷は私にとって圧倒的に過去のものです。私の生きたほとんどは東京ですし、そこから多くのものを得てきましたから、私には過去の遺物、記憶の中の故郷なのです。それでも、それは私が生きた故郷であり、架空のものではありません。こんな故郷への接し方は現在の故郷にとっては迷惑至極なのですが、私は故郷と共に生きてきた訳ではありませんから、私の過去である記憶の故郷が圧倒的に私の故郷なのです。
これまで何日か出雲族や出雲国の影響を受けた蝦夷の郷としての小出雲、美守などについて書いてきました。さらには、修験道の関山神社や妙高山も何度か述べてきました。でも、私は妙高市を決定的に変えたのは浄土真宗だと思っています。修験道の方が若者や外国人観光客には魅力的に見えますが、庶民の生活を変え、支配したのは一心に念仏を唱えるだけの親鸞の浄土真宗です。その直接的な証拠は妙高市内の浄土真宗寺院の割合です。9割を超える寺院が浄土真宗であり、それは日本随一と誇れる割合です。それも今は変わりつつあり、「南無阿弥陀仏」と唱える人はめっきり減りました。門徒という自覚を持つ人の数はきっと僅かな筈です。確かに私も門徒だという自覚はほぼないのですが、子供の頃の私には浄土真宗の寺の日曜学校で、仏様たちの紙芝居を見ながら、極楽を夢見ていた頃がありました。日常の生活の中でも祖母が一心に「ナマンダブ」と仏壇の前で唱える姿をほぼ毎日見ていました。
ここでは私が強い関心を持つ二つのことに触れておきます。時代は前後しますが、まずは前に述べた姫川原の正念寺です。江戸時代に真宗学(親鸞の仏教思想を研究し、その内容を明らかにする学問)の学寮(寺院で僧侶が生活し、学問研究をする建物)を設けていた寺院が姫川原にある正念寺で、一時我が家は檀家になっていて、何度も祖父母と正念寺に行ったと既に述べました。私は姫川原の寺と呼んでいましたが、まだ小学校入学前ですから、正念寺が三葉勧学精舎として有名だったことなど一切知りませんでした。私がよく行っていたのは昭和の30年代初めですから、当然ながら既に学寮はありませんでした。
正念寺は本願寺派(西本願寺)に属しています。江戸時代後期、正念寺は「三葉勧学精舎」と呼ばれました。江戸後期に六世興隆、僧朗、慧麟の親子三代の住職が西本願寺の学林の教授となり、正念寺に崑崙社(こんろんしゃ)という学寮をつくり、その学寮に学僧を寄宿させて、真宗学を教えていました(崑崙は中国古代の伝説上の山)。今でも山門の前に「三葉勧学精舎」の大きな碑があります。75年程の間に932名の学僧が学んでいますから、年平均12~3名ということになります。
*カトリックの神学は自然神学と啓示神学とに分かれ、トマス・アキナスがそれらをまとめましたが、真宗学は浄土真宗の宗祖親鸞の思想を研究し、明らかにする学問です。他力本願の思想、二種深信、悪人正機、二種回向などが研究対象になります。江戸時代になると、東西本願寺がそれぞれ学寮や学林を設け、学生を寄宿させて真宗学を学ばせました。また、私塾が全国的に勃興し、その実力は学林を凌ぐ力を持っていました。正念寺の崑崙社もそのような真宗学の塾の一つでした。訓練中心の禅問答に比べると、真宗での論争は真剣そのものでした。特に、異安心(異端)に関わる論争は有名で、高田の浄興寺と新井の願正寺の論争はその一例です。明治以降、東西の本願寺は西洋式の大学制度を取り入れ、現在の龍谷大学や大谷大学になっています。
さて、次の私の関心は上記の異安心(異端)です。願生寺編『新・願生寺正鑑』(2023、法藏館)は第一部から第四部までの534ページに及ぶ願生寺の歴史とその資料からなっています。小児往生の異安心に関して願生寺と浄興寺の間の論争は私にはとても興味深いものです。浄土真宗の小児往生の議論は近世の教団確立期に大きく揺れ動き、まだ信心を得ていない小児に往生が可能なのか、不可能なら弥陀の本願に背くのではないかという疑問は、「異安心(いあんじん)」問題として何度も議論されてきました。
この問題が論争となった舞台が越後。越後と北信濃に触頭寺院(ふれがしらじいん)として絶大な力を誇っていた新井(現妙高市)の願生寺と親鸞の居多ケ浜上陸以来のゆかりの有力寺院だった高田(現上越市)の浄興寺との間に教義論争が起こります。多くの末寺門徒と本山東本願寺を巻き込んだ論争の裁定には寺社奉行までが乗り出す始末となりました。論争となった問題は「小児(15 歳以下の者)は往生して仏になれるか」でした。「小児は往生できる」という浄興寺方と、「小児は往生できない」という願生寺方との主張が真っ向から対立し、論争は願生寺方が敗れて終わります。その結果、願生寺は取り潰され、新井別院へと姿を変え、浄興寺は自らの地位を守りました。
この論争を少々ファンタスティックに説明すれば、次のようになるのでしょうが、これを今の若者たちがどのように受け取るか、それがよくわからないのが老いた私で、それが老いの僻みにつながっているのです。
「阿弥陀仏の「本願」は阿弥陀仏の本当の願いですから、私たち一人一人を間違いなく救おうという願いです。その願いが、私がこの世に生まれてくる以前から、既に私に差し向けられ、私のために用意されています(そこには大人も子供も違いはないですが…)。釈迦がたまたまこの世に生まれ、たまたま仏になり、人びとに教えを説いた、ということではありません。この世に現れたのは、ただこの私を救ってやりたいという阿弥陀仏の本願が、私に差し向けられている、その事実を私に教えようとしているためです。小児は弥陀の本願を知る由もないのですが、それでも阿弥陀仏はその小児を救うために存在するという状況をどれだけ重視するかで両者の意見が分かれることになりました。小児の信仰を小児の意思に基づいて考える願生寺側と、小児の信仰を阿弥陀仏の本願をもとに考える浄興寺側とで、小児往生が可能か否かの答えが異なったのです。」