徘徊と彷徨(1)

 コスモス、ダリアはメキシコから日本にやってきた。私の故郷の近くの黒姫高原にはダリア園とコスモス園があり、美しい花姿を存分に楽しめるのだが、故郷の妙高にはなく、物足りない思いをずっとしてきた。キク科コスモス属のコスモスの和名は「アキザクラ(秋桜)」、「オオハルシャギク(大波斯菊)」。コスモスの日本への渡来は1896(明治29)年。同属別種で交配できないキバナコスモスもやはりメキシコ原産で、日本へは大正初期に渡来している。

 秋に咲く桜に似た花、つまり、秋の桜という意味で、「秋桜」と名付けられたと言われているのがコスモス。コスモスの花弁の形が桜に似ているので、「秋桜」となったらしいのだが、どこがどのように似ているのか、私にはよくわからない。さらに、それを「コスモス」と読むようになったのだが、それは戦後のカタカナ語(英語の単語をカタカナ読みしたもの)の一つではないのか。1977(昭和52)年に山口百恵の「秋桜」が大ヒットし、作詞作曲がさだまさしで、曲のタイトル「秋桜」を「コスモス」と読ませ、歌詞の中でもコスモスを「秋桜」と表記したと説明されると、多くの人は妙に感心し、納得するようだ。だが、「秋桜」は「コスモス」の別名で、本来「あきざくら」と読むべきところを、戦後の流行で「コスモス」とカタカナ語で読んだに過ぎないと言われると、興醒めである。これに似ているのが、「秋桜」より2年前の1975(昭和50)年にヒットした「シクラメンのかほり」。シクラメンの和名には牧野富太郎命名の「かがりびばな」、大久保三郎命名の「ぶたのまんじゅう」があるが、どれもこのヒット曲のタイトルには馴染まない。その上、当時のシクラメンには香りがなく、「かほり」が「かをり」へ、さらに「かおり」へと表記が変化してきた歴史を考えると、このタイトルは何とも落ち着かない。シクラメンの学名はCyclamen persicumで、ペルシャシクラメン(中世ラテン語の発音)という意味だが、米語だとサイクラメンで、間が抜ける。

 こんな文句を並べても詮無いのだが、これが文化史の常態。ついでに、もう一つ疑問を述べておきたい。それが「秋桜子」という俳号の由来。「秋桜」も「コスモス」も秋の季語になっているが、「秋桜」で思い出すのは俳人水原秋桜子(1892-1981)で、私の祖父と同年配である。彼は「俳句を論ずるに当たつて、まづ第一に明らかにして置くべきことは、「俳句は抒情詩である」といふことであります。」(『俳句の本質』(交蘭社、1937年)と述べ、子規が主張した写生ではなく、抒情的な俳句を提唱した。彼の「コスモスを離れし蝶に谿(たに)深し」は、コスモスの花の中にいた蝶が、そこから舞い上がり、深い谷の上に出たという情景を詠んだものだが、彼の主張がよく出ている。

 「秋桜子」という俳号の由来は私にはよくわからないのだが、「○○子」という俳号は子規の流れをくむ人を表している。子規の後継者で、秋桜子と対立することになる高浜虚子は1891年に子規から「虚子」の号を受けている。

 コスモスは幕末にオランダから伝わり、1879(明治12)年に彫刻家のラグーサが種子を持ち込み、当初は「大波斯菊(オオハルシャギク)」と呼んでいた。「波斯」はペルシャのこと。やがて「秋桜」という名で呼ばれるようになる。誰が呼び始めたか不明だが、今ではコスモスの当て字、漢字名として通用していると既に述べた。コスモスは既に1906年には一般に知られていたことから、1892年生まれの秋桜子が成人した頃にはコスモスを「秋桜」と呼んで、知っていたことがわかる。

*画像はコスモスとキバナコスモス