「私は今ここにいる」という私の知識の正当化(2)

 カントの試みから認知科学までの基本的構図をまとめておきましょう。私たちの信念の大半は世界を経験し、その結果に訴えることによって正当化できますが、幾つかの信念は知覚経験に訴えない仕方で正当化されると考える哲学者がいます。彼らはその幾つかの信念は理性あるいは純粋な思考だけによって正当化されると考えます。そのような仕方で正当化される信念は「アプリオリに」正当化されると言われ、経験的に正当化される信念は「アポステリオリに」正当化されると言われます。アプリオリな知識は経験に先立つと言われますが、これは論理的に先立つのであって、時間的に先立つのではありません。

 カントは「アプリオリであることは必然的である」と考えました。つまり、「Pをアプリオリに知ることができるなら、Pは必然的に真(どのような可能な世界でも真)でなければならない」という訳です。言い換えれば、Pが偽である世界はどこにもないのです。それに対して、偶然的な言明はある可能な世界で真になるが、別の可能な世界では偽になる言明です。必然的な言明の中にカントが分析的に真と呼ぶ言明があります。総合的な言明は分析的でなく、その言明に登場する名辞の意味から真であることが論理的に導出できない言明です。カントの『純粋理性批判』の主要な関心の一つは、分析的言明だけでなく、総合的言明についてもアプリオリな知識がどのようにして可能なのかを示すことにありました。

 必然-偶然(necessary-contingent)、分析的-総合的(analytic-synthetic)、アプリオリ-アポステリオリ(a priori- a posteriori)の組み合わせに関して、カントはそれらを重ね合わせながら議論を進めるのですが、それに異議を唱えたのがクリプキ(Saul A. Kripke)です。例えば、偶然的に真である言明の中にはアプリオリに知ることができるものがあります。また、必然的に真である言明のなかにはアポステリオリに知ることができるものがあります。アプリオリに知ることができ、偶然的に真である例は「パリにある標準メートル原基は1メートルである」という言明です。パリの標準メートル原基は「1メートル」という語の指示を定めるために用いられるので、私たちはこのメートル原基が1メートルであるとアプリオリに知ることができます。それは定義であり、定義はアプリオリなのです。でも、この言明は偶然的です。というのも、標準メートル原基が熱せられ、その長さを変えてしまうような可能世界があり、私たちはそれを想像できるからです。

 アポステリオリにしか知ることができなくても、必然的に真であるものの例は、固有名詞を含んだ真なる同一性言明です。例えば、「明けの明星=宵の明星(明けの明星は宵の明星である)」はそのような言明です。この言明は必然的に真です。というのも、「明けの明星」という名前によって指示されるものが「宵の明星」という名前によって指示されるものと同一でない世界は存在しないからです(「明けの明星」と「宵の明星」の意味は同じではありません)。一方、「明けの明星」や「宵の明星」は経験的に(つまり、アポステオリに)しか学べない語です。このように、カントが考えた分類はクリプキによって書き換えられることになりました。

 カントの認識論については既に幾つも批判があります。それら批判にもかかわらず、彼が残した遺産は認知科学へと引き継がれてきました。私たちの認知、認識がどのようになされるかはその仕組みの解明が着実に進んでいますが、カントの認識論はその先鞭となっているのです。