嘘しか言わない狼少年が「今自分が言っていることは嘘だ」と自己言及(self reference)したとき、それは嘘なのでしょうか、と問われて、あなたならどう答えますか。狼少年自身が自分は嘘つきと表明しており、嘘が嘘なのですから自分が言っていることは本当になってしまいます。でも、この発言自体が嘘なら狼少年は正直者ということになり、嘘しか言わないことに反することになります。これが有名な「クレタ島の嘘つき」問題です。この頓知のような話を聞いて、イソップ童話の「狼と羊飼い(嘘をつく子供)」の狼少年の言動がもつ倫理的な教訓を思い出し、それと関連づけるような風変わりな人はいないと思います。一方は論理や言語の問題、他方は倫理や道徳の問題であり、基本的に異なった分野の問題だと昔から峻別されてきたからです。まずは、二つの問題がそれぞれどのようなものかを確認しておきましょう。
(狼と羊飼い)
「狼と羊飼い」はイソップ童話の一つ。羊飼いの少年が、「狼が出た!」と嘘をつき、騙された大人たちが武器を持って出てくるのですが、徒労に終わります。少年が同じ嘘を繰り返したので、本当に狼が現れた時には誰も助けに来ませんでした。そして、村の羊は全て狼に食べられてしまいました。人は嘘をつき続けると、たまに本当のことを言っても信じてもらえなくなる、常に正直に生活することによって、他人から信頼と助けを得ることができるという教訓を述べた寓話と受け取られています。
『イソップ童話』は、アイソーポス(イソップ)が作ったとされる寓話集。ヘロドトスの『歴史』によれば、紀元前6世紀にアイソーポスが寓話をつくったとされています。現在の寓話集には、アイソーポスのもの、古代メソポタミアのもの、後世の寓話、小アジアの民話などが含まれています。ギリシャ語の原典があったかどうかは不明で、現存するのは後世の編集。
(パラドクスの一例)
「クレタ島の嘘つき」は哲学と論理学の自己言及のパラドクスで、クレタ人のエピメニデスが「クレタ人はいつも嘘をつく」と言ったとき、クレタ人が本当にいつも嘘をつくなら、彼のこの言葉も嘘となってしまう、というものです。「嘘つきのパラドクス」の最古のものは、紀元前4世紀の古代ギリシャの哲学者ミレトスのエウブリデスが考案したとされ、彼は「ある人は自分が嘘をついていると言う。さて、彼は本当のことを言っているか、それとも嘘をついているか?」と尋ねました。このパラドクスの最も単純な文は次の通りです。
(1)この文は偽である。
(1)が真だと仮定すると、そこで述べられていることは真。しかし、(1)はそれ自身が偽であると述べているので、それは偽です。同様に、(1)を偽だと仮定すると、そこで述べられていることは偽。しかし、(1)はそれ自身がが偽であると述べているので、それは真になります。こうして、いずれの仮定のもとでも矛盾が生じます。
疑うことは人が知識を獲得する上で重要な役割を果たしています。デカルトの方法的懐疑やヒュームの懐疑論は既に聞いたことのある人が多い筈です。また、太宰治の「走れメロス」や狼少年の話も大抵の人が知っています。そして、これらの例は二つの異なる事柄として、殊更に関連させることなく別々に理解されてきました。二つは異なる事柄だということをはっきりと書き出してみれば、次のようになるでしょう。
(2)個々の信念や言明の真偽を疑う(デカルトやヒューム、懐疑)。
(3)人や組織全体の信頼、信用を疑う(太宰、不信)。
これら二つの言明が同じでないとすれば、その間にはどんな関係があるのでしょうか。知人が狼少年とは正反対にいつも真実しか言わないとすれば、その知人をあなたは信頼する筈です。逆に狼少年のようにいつも嘘をつくのであれば、その知人を信用しない筈です。二つの関係は、
(2)がなければ、(3)もない、
であり、人や組織全体を疑い、不信をもつためにはその人や組織の個々の言明や言動を疑わなければなりません。(2)の言明が集められ、集合をつくることによって(3)の言明がつくられるのです。二つの言明の間にはこのような関係があるのです。つまり、(2)のような言明が集められ、それらをもとにして(3)のような人や組織についての総合的な判断が生まれるのです。
「疑う」ことと「信じる」ことは正反対のことだと思われ、二つの間の関連など普通は考えもしません。しかし、疑うことができなければ信じることができず、信じることができなければ疑うこともできないという相補的な関係が二つの動詞の背後に隠れているのです。信頼される信念は真でなければなりませんし、偽の信念は疑いのあるものです。信念の真偽が変わることによって、信頼される信念と疑いのある信念の地位はいつでも入れ替わることができます。それゆえ、古い誤りが是正され、新しい信念が採用されて、人間関係や組織、制度を変えていくことができるのです。
個々の信念や言明を疑うことが知識を学ぶ出発点とすれば、人や組織を疑うために知識を習得することが求められることになります。「友人や組織を疑うために知識を学ぶ」というのは奇妙でパラドクシカルなことのように思えますが、それは「友人や組織を信頼するために知識を学ぶ」ことの別の表現に過ぎません。信頼するためにはその知識を信じるだけでなく、疑うことができなければなりません。信頼のためのメカニズムは疑うためのメカニズムと基本的には同じことなのに、人は通常一方のみへの視点に偏向しがちです。人や組織を信頼したり、不信をもったりすることの基本にあるのは個々の信念や言明に対する真偽です。人を信頼するにはその人の日々の言動がわからなければ、納得できる判断はできません。組織の仕事や決定に対する信頼や自分の関わり方もすべて(1)から得られる個別的な情報に依存しています。人や組織への信頼や不信という心的な態度は、経験的で実証的な真偽の積み重ねの結果なのです。
さて、このような主張についてあなたはどのように考えますか。成程、その通りなどと簡単に得心せずに、私が書いたことが正しいかどうか疑ってみて下さい。例えば、「信頼できる先生の主張だから、それは正しい」という言明は上の主張に対する反例にならないか、上の主張から「人や組織の言動の善し悪しは信念や言明の真偽に還元できる」ことにならないか、と。そして、このような懐疑の態度こそが知識を学び、人間や世界を考えることの基本だという主張に賛成しますか。
最後に少々アカデミックな話。自分が自分自身について語るときに自己言及のパラドクスが生じると述べましたが、ゲーデルの不完全性定理も、数論の言明が数論の言明について語るという形になっていて、「数論の無矛盾な公理系は、必ず決定不能な言明を含む」と主張しています。数論を使って数論の性質を証明しようというのがこの定理で、自分自身の性質を証明しようとしています。でも、数論の言明は整数について述べていますが、数論の言明自身については述べることができません。ゲーデルは数論の言明を整数でコード化できれば数論の言明でも数論の言明について語れることを見抜き、パラドクスに陥ることなく、定理を証明したのです。