祖父の「耳なし芳一」

小泉八雲の『怪談』に「雪女」と共に入っているのが「耳無芳一の話」(The story of Mimi-nashi-hoich)(戸川明三訳、青空文庫で読むことができる)。

 妙高では新井小、新井中が共にコロナ感染者のために休校とのことで、A君は祖父から話を聞く十分な時間ができた。以下の文章は祖父の話をA君がまとめたものである。

 「雪女」が典型的な昔話だとすれば、「耳なし芳一」は歴史的な出来事や文献などが控えている物語。開口一番、祖父は神仏習合の一例だと言う。平家一門の怨念、怨霊が琵琶法師の語る「壇の浦」を聞きたいと願い、仏法によって悲劇が起こらないように試みるも、芳一の耳が犠牲になるという話で、神道の祟りや怨霊と、仏教による鎮護が混淆して物語が展開される。皮肉屋の祖父は「耳を引きちぎられても、耳が聞こえるとは…」と呟いたが…

 怨霊と仏法の係わりは古い。長屋王の祟り、怨霊をどう鎮めれば良いか、このままでは自分の身が危ないと考えた聖武天皇は、奈良に東大寺と大仏を、各国には国分寺国分尼寺を建てることを考えた。奈良の大仏は「盧舎那仏」。盧舎那(るしゃな)とは「太陽」を意味し、それによって日本中を光で照らし、国分寺国分尼寺によって、国家の繁栄と安泰を願い、長屋王に対する自分たちの罪を浄化する。怨霊による祟りを仏教の力で鎮めること、つまり神道と仏教の習合をここに見ることができる。

 日本の琵琶は奈良時代に中国から伝わり、器楽の琵琶楽(雅楽)と声楽の琵琶楽(盲僧琵琶)とがあるが、琵琶法師は宗教の音楽としての盲僧琵琶を担い、話に登場する芳一はそのような琵琶法師だった。『平家物語』には、仏教の無常、因果応報、浄土、末法の思想が色濃く含まれ、鎌倉時代にはその『平家物語』を琵琶の伴奏に合わせて語る平曲が完成する。

 平家の怨霊が自ら「平家物語を語ってくれ」と言い、芳一の弾き語りに涙を流しながら熱心に聞くという「耳なし芳一」の話は、『平家物語』よりも後のものだが、鎮魂の方法が具体的に表れている。慈円は『愚管抄』で「この世の乱れはすべて怨霊が原因」と述べ、怨霊信仰の信者だった。怨霊の鎮魂にあたって大きな転換となったのが菅原道真。道真の場合、託宣により北野天満宮が建立され、天満自在天神という神号が付与され、「御霊」になった。

 『平家物語』は世の泰平を祈る怨霊回向(鎮魂)の物語として作られ、盲僧の琵琶法師は回向のために『平家物語』を語ったと思われる。平家の怨霊から命を守ろうと身体中に般若心経を書いて身を隠すも、唯一経文を書き忘れた耳を持っていかれてしまったのが「耳なし芳一」の物語。盲目の芳一は、一人の武士に依頼され、高貴な人物の屋敷に琵琶を弾きに行くことになった。毎晩夜遅くに出かける芳一を不審に思った寺の者が後をつけると、そこは屋敷ではなく平家の墓地であり、その琵琶を聞いていたのは無数の怨霊だった。

 菅原道真の怨霊は鎮められ、御霊に昇華され、神となる。政争や戦乱の頻発した古代期を通して、怨霊の存在は強力なものと考えられた。こうした亡霊を鎮め、神として祀れば、「御霊」となり、霊は鎮護の神として平穏を与えるという考え方が平安期に起こる。これが御霊信仰である。

 ところで、『平家物語』はその後の能に大きな影響をもっていた。演劇としての能の「男」は大概武士のことを指す。しかも、その武士は平安時代末期に活躍した平家、源氏の武士たち。武士たちの仕事は戦うことで、戦いでは人を殺す。仏教では、人を殺すと、死後修羅の地獄に落とされる。平家や源氏の武士たちも当然、死後は修羅の世界に行き、修羅に苦しむ武士は生前の世界(現世)に救いを求める。その世界から救われる道は、僧侶に自分の生涯や心を語ることだけである。人に祟り、悪さをする怨霊とは違うのが修羅。修羅能では修羅道に落ちて苦しむさまが語られ、多くは『平家物語』に取材し、源平の武将が主人公となる。修羅の能は仏教的な世界観でつくられていて、「耳なし芳一」でも芳一に祟り、悪さなどしていない。修羅に苦しむ平氏の人たちは現世の人々に助けを求めこそすれ、彼らに祟ることはないことがわかる。

 こうして、「耳なし芳一」の芳一の災難は神仏習合の不具合の一例だということになるのだが、それが単なる不具合ではなく、本質的な断絶なのかどうかはさらに歴史を見なければわからない。

 A君は「雪女」と違う祖父のコメントに少々驚きながらも、休校で退屈気味の頭には結構な刺激だと感じていた。