冥と顕と、知と無知と

 慈円の『愚管抄』や『平家物語』には冥(みょう)と顕の混淆、習合が表現され、折口信夫の『死者の書』にはそれが遥か昔の物語として語られています。中世人の世界像を考えるうえで、「冥(みょう)」と「顕」の世界、すなわち「見えない存在、現象」と「見える存在、現象」の習合の重要性が指摘されてきました。

 私たちは中世までの人たちと違って見える世界にばかりとらわれがちですが、見えない存在(冥衆(みょうしゅ))が重視されるのが中世の世界観の特徴だと言われています。そして、冥顕の世界観を知ることこそが中世思想を知るうえで重要となると主張されているのですが…

 こちらから向こうは見えないけれど、向こうからこちらは見ることができ、実際に見られている、という眼差しの非対称性を出発点にして、世界認識の非対称性が中世の世界観を考える鍵となると言われます。慈円の『愚管抄』は冥顕を重視した歴史書ですが、人間の眼に見えない「冥衆」の存在が種々に論じられ、その力(冥利・冥罰)が重視されています。人間の眼には見えないけれども、見られており、しかも見られていることを実感しているという被透視感覚がそこにあります。

 明るい世界(顕)から暗い世界(冥)は見えませんが、暗い世界から明るい世界はよく見えます。暗闇は明るい世界を見るには好都合の状況なのです。とはいえ、「見える」と「見えない」の非対称性から、「知る」と「知らない」の非対称性にそのまま直線的に連結することができるのでしょうか。確かに、スポーツや楽器の演奏が「できない」ことが「できる」ことの意味を明瞭にするかもしれませんが、逆にスポーツや演奏ができない人にはそれが「できる」ことを理解できないことも如実に示してくれます。

 「知る」と「知らない」の対も上記の「できる」と「できない」の対と同じように、混淆や習合ができないもので、水と油のようなものなのです。冥と顕もそのような対の筈なのですが、なぜか混淆、習合できると人々は考え、それを遥か昔から受け入れてきたのです。ここに神仏習合だけでなく、日本人の混淆、習合の本質があるのかも知れません。

 この世界観を如実に表す例が既に言及した「雪女」や「耳なし芳一」です。壇ノ浦で敗れた平家の人々は怨霊となって芳一の平曲に聞き入る訳ですが、俗世に住む僧を含む人たちには彼らが見えないのです。

 私たちの世界は向こう側の冥の世界に取り囲まれていて、しかもこちら側からは見えないのに、向こう側からは見られているというのが中世の世界観です。日本の神々であれ、仏教の如来や菩薩であれ、さらには死者、怨霊、魑魅魍魎などであれ、彼らが私たちを見ている、これが冥顕という世界観なのです。

 この世界観を転用するなら、知っている世界を取り囲んで未知の世界が広まっているというのが現代の私たちの知識と世界の関係だと表現できそうです。「既知」と「未知」の関係は冥顕の関係に確かに類似していますが、それを「知」と「無知」の関係にまで広げられるのか。これは私にはまだ謎です。