戸隠神社と関山神社

 二つの神社に共通するのは、共に神仏習合の典型例であり、修験道と関係が深い点です。そこで、それらについて考えてみましょう。

 修験道は山を神聖な場所と捉え、山の奥深くまで分け入り、修行することによって、神秘的な力を手に入れ、その力によって救済を目指す山岳信仰の宗教で、修験を「山伏(やまぶし)」とも言います。自然の中でも特に「山」を神聖視してきた日本人古来の山岳信仰に、仏教、道教儒教などの外来の宗教が結びつき、さらにそこに神道陰陽道民間信仰などまでが取り入れられ、混成されてきたのが修験道です。

 修験道の教義や世界観、修行方法には仏教、特に密教が取り入れられていて、そのため密教の知識がないと、修験道を理解することはできません。中世より多くの密教僧が修験道を伝えてきました。そのため、「修験道は仏教の一部」と見なされる場合が多く、修験道は仏教の修行法の一つと考えられてきました。こうして、修験道とは日本古来の漠然とした宗教的心情を、主に仏教思想を利用して整理し、さらにその他の宗教をも習合して形成されてきた独特の宗教と捉えることができます。

 現在の戸隠神社は、奥社、九頭龍社、中社、火之御子社、宝光社の五社から成り立っていますが、明治以前は「戸隠山顕光寺」と呼ばれ、奥院、中院、宝光院からなっていました。既に平安時代には神仏習合の一大山岳霊場として多くの修験者が集い、戸隠三千坊と言われるほど、修験道の聖地として歴史を刻み、戸隠山の険しい岩峰の姿から、厳しい修行の場でした。明治に入り、神仏分離により仏像や仏教的なものは全て取り除かれ、名前も戸隠神社と改められ現在に至ります。この経緯は関山神社とほぼ同じで、修験道別当寺、神仏分離など、まるで兄弟のようによく似ています。

 ところで、「別当(べっとう)」は「兼務する」という意味で、寺院が兼務して神社を管理する場合に使われました。神社を管理するために置かれた寺院が別当寺、宮寺(みやでら)、神宮司(じんぐうじ)などと呼ばれました。ですから、宝蔵院が関山神社を、顕光寺戸隠神社を管理していたということになります。このような管理体制は本地垂迹説にもとづいているため、別当寺の方が神社より優位な立場にあり、別当寺が神社の祭祀を仏式で執り行い、神前読経があげられ、それを取り仕切っている僧の代表が「別当」と呼ばれていました。ですから、「別当」は「宮司」よりも上位の立場にありました。