古典力学と古典的世界観の僅かな差異

 物理世界に関する基本的で自然な前提となれば、因果性、確定性、連続性という三大前提。これらがギリシャ以来の伝統だったが、それが科学革命で変わり出す。日常世界でのこれら三つの前提は揺るぎない確信に近いものだった。
 物理世界の変化だけでなく、神話や物語、私たちの生活自体が因果的であり、原因と結果の鎖は鉄壁なものだった。1個のリンゴが木から落ちるような単純な因果過程から、ドラマの複雑なシナリオの展開、多様な歴史的変化、日常の人間関係に至るまで、それらの前提となっているのが因果的な変化(Causality Principle)である。どんな出来事も因果的に起きる、それが世界の基本中の基本構造だというのが長年共有されてきた人間の信念だった。
 物理量が私たちの実験や観察とは独立にいつでも無条件に確定した値をもつというのが確定性であり、ハイゼンベルク不確定性原理(ケナード・ロバートソン不等式)はこれに反する原理である。基本的な物理量に限らず、どんな出来事、現象に登場する対象もその物理的な性質はいつでもどこでも確定しているというのが確定性の原理(Determinacy Principle)である。つまり、私たちが観測、測定しているか否かに関わらず、対象がもつ物理量はある一つの値をいつでもどこでも確実にもっている。これは、自明のことで言うまでもないこととずっと信じられてきた。
 現象が突然に生じたり、消えたりせず、変化が途切れることなく続くというのが連続性の原理(Continuity Principle)である。力学的なモデルは通常始まりも終わりもない。コインを投げる場合、スタートは物理的な理由でなく、単にそこから始めるに過ぎないし、地面に落ちて表か裏が出て終わりというのも恣意的、便宜的なものである。原因と結果の系列として現象変化を捉え、その変化を連続的なものとみるのである。連続的な変化は自然的(natural)であり、非連続的な変化があれば、それは超自然的(supernatural)と呼ばれてきた。
 これら三つの原理が古典論理と通常の言語規則と組み合されると、決定論的な世界観が手に入ることになる。それが「古典的世界観」と呼ばれてきたものである。それをさらに一般化し、数学的に厳格化した例が古典力学古典力学では因果性の代わりに対称性が原理となっている。時間の向きは過去、未来に関して対称的、空間の向きも上下、左右に関して対称的なユークリッド空間が想定され、運動変化は実数値の変化として方程式によって表現されるのが古典力学。時間が非対称的で、過去から未来に向かって進むというのが因果性であるから、古典的世界観は古典力学の変化の特殊タイプと考えることができる。
 それゆえ、古典力学決定論的な主張は科学革命の成功として、さらには人間理性の勝利として、世界の出来事は原理上合理的に決定可能であると宣言されたのだった。ラプラスの魔物は世界のある時点での状態を知ることができるなら、過去も未来もすべて含めていつの時点での世界の状態も計算可能である、これが「世界は決定論的だ」というラプラスの認識論的な表現である。
 このような勇ましい結論は何かが誇張され、そこから誤った結論に至ったと考える方が無難である。古典的世界観は完全な決定論を物理世界に関して主張するものではない。そこで、「決定論的な古典的世界観」に風穴をあけるために利用できるものとして、確定性と連続性を俎上に上げ、考察することが必要となる。
 世界の確定的な状態が因果的に変化し、それが連続的であれば、結果として、その状態の変化は決定論的となる。これが古典的世界観の根幹にある考えである。大変単純で明解である。位置や速度がいつでも確定していることはその値を決める決め方に依存している。これが第一歩である。決め方と独立しているというのが古典的な考えであるが、それは経験的に確かめられたわけではなく、単なる信念に過ぎない。

 確定性への挑戦は、運動変化の軌跡を決めるのは位置と速度であり、時間を分割し、その極限として値が確定する、という点に注目しよう。連続性への挑戦は、運動変化が反復すること、繰り返されることが可能なことに注目する。そして、二つの挑戦を合わせることによって、決定論的な世界で確率的な出来事が可能なことを示すことである。複数の状態が可能で、その状態の時間的な変化が非連続的であることが可能なら、非決定論的な帰結、つまり、マクロな場合は複数の同じ状態の反復が可能で、それが確率的に表現できる、ということが帰結するはずである。この青写真を丁寧に展開し、それを書き下すことが統計力学の基礎となるだろう。