生活世界では当たり前の素朴実在論から眺めると…

 初恋の相手が実在しないと困るかと問われると、そうでもないと答える人が案外多いのかも知れない。相手を勝手に想像する傾向が強く、自分の気持ちだけが先走るのが初恋の特徴だとすれば、ある程度は合点がいく。何度も恋愛経験をもち、分別ある恋をするようになると、相手が実在しないと困ることになる。生活に根ざした分別ある恋は自分の気持ちより、相手の気持ちが重視され、相手の存在を抜きにしては成り立たない。
 生活世界ではそれぞれの職業に応じて経験的な知識や情報のムラが生み出されている。一様で公平な知識はむしろ少なく、大抵の知識は私たちの関心に応じて濃淡がある。関心の高い分野の知識や情報は詳しく、細かい。衣食住、医療、科学技術等に関する知識は多くの人の関心の的であり、関心が高い対象ほど詳細な知識が獲得されている。
 恋には相手との相互理解が不可欠で、そのためには相手とのコミュニケーション、情報交換が必須である。生活に不可欠な知識と情報はその対象についての実在論を強く支持する。他人とのコミュニケーションでも、その他人だけでなくコミュニケーションの中に登場するものも実在することが前提されている。だから、生活世界で設定すべき最も単純な仮説は生活に必要なものについての実在仮説ということになる。日常のコミュニケーションに登場するものは原則実在すると仮定される。単なる物語世界と私たちが住む日常世界を分けるのは、日常世界の対象は実在するものだという仮説である。この仮説を共有することによって私たちは日常世界を共通に理解でき、そこで生活できることになる。
 この実在仮説に反対する人はおらず、自らの生活が確固たる基盤をもち、安定的だと信じるための基本仮説であることに誰も反対しないのではないか。にもかかわらず、実在論批判が近世以降の哲学の傾向であり、実在論的立場を一貫してもってきた科学と際立った違いをもたらしてきた。素朴実在論という言葉は哲学者以外の人が頭から信じ切っている実在に対する態度を揶揄ったものだが、その「素朴」の意味はきちんと考えられてこなかった。哲学的な実在論のもつ特徴は普遍的、一般的で、それゆえにすべてを一括して議論するという何とも退屈な議論に終始してきた。法律の条文が個別的な差異を表現できないように、哲学的実在論は一般的な表現だけで、個別の事柄の色や匂いを語ることを良しとしない。一方、素朴実在論は濃淡だらけの世界、好奇心や欲望に支配される世界を基本にしていて、関心のあるものが実在し、関心のないものは存在しないかぼやけたままで構わない。

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 トーマス・ホッブス(Thomas Hobbes 1588-1679)はロック以降のイギリス哲学を特徴づける経験論を先取りしていた。ギリシャ以来常に「存在とは何か」が中心の問題となってきた。ここで使われる「存在」が存在論というアリストテレストマス・アクィナスの哲学と関わっているのだが、「実在」や「実在論」とは既に微妙に違っている。ものの存在だけでなく、存在一般についての学が存在論ということからも、物質や事象の存在の一般化がここにあることがわかる。ホッブスの思想の根底にあるのは、徹底した唯物論唯名論で、彼は「非物質的な実体」を否定した。なぜなら、実体的な観念は端的に誤りだからである。ホッブスは「存在」を「実在」と「観念」に分解し、観念の実在を否定し、実在するものを物質に限定したのである。彼は普遍的な観念を言葉の作用と結びつけて考える。言葉がなければ観念も、まして普遍的な認識も成り立たない。経験重視の態度と数学の尊重とはそれまでなかった組み合わせで、ホッブスは今日では科学的な常套の方法となっているこのアプローチを意識的に採用した最初の思想家だった。初恋の恋人は観念的で、勝手につくり上げた偽物かも知れないが、分別ある恋の相手はホッブスの主張によってその存在を否定されることはない。この点で、ホッブスの考えは私たちの日常的な実在論と相反するものではない。
 ジョン・ロック(1632‐1704)は経験論的な認識論を展開し、私たちの能力が到達できない物ごとの探究は止めるという意味で、形而上学の終了を主張した。それまで世界や人間の理性について一般的に論じる試みは誤りで、経験と観察可能な領域を考察の対象に限定すべきだと主張する。ロックは知性の対象は観念であり、それゆえ観念を探求すべきと考えた。日常的な世界像では、意識の外側に事物が存在するのが当然である。しかし、厳密に考えると、本当に世界が存在しているかどうか、また、私の見ている世界が意識の向こう側にある世界と同じかどうかを証明することは、原理的に不可能である。
 私が恋焦がれる相手が私の意識の向こう側にいるかどうかわからないと言われたら、恋などそもそも成り立たなくなってしまう。証明ができないから存在しないことにはならず、単に証明できないというだけのこと。恋人は証明する必要のない存在だと居直ることは誤っていないどころか、真っ当な信念である。原理的に証明不可能だから意識の外に対象が実在するとは言えないが、同じように実在しないとも言えない。その上、原理的に証明できないことの証明は実はどこにもなされていないのである。
 さて、ロックによれば、心は経験によって観念をもつようになる。心は最初白紙であり、そこに観念はない。どのようにして心は観念をもつようになるのか。その解答が経験である。まず、感官によって与えられる感覚が、対象の性質の観念を心に備えつける。その次に、観念についての内省が起こり、最後は内省自身もまた反省的に捉えられ、それによって知識が生じる、とロックは考える。今様に言えば情報処理プロセスである(対象→(感官)→ 観念が心に置かれる→(内省) → 知識)。
 ロックの認識論のなかで、その後のアポリアになったのが実体についてのロックの見方を巡るものである。私たちは白くて、さらさらとして、匂いはないが甘いものに「砂糖」という名前を与えて独立の物質として認識するが、この砂糖という言葉で意識されるものが、ロックによれば実体に相当する。ところで、実体は私たちが単純観念をもとにして、それらを相互に関係づけることによって導き出してきた観念である。したがって、それは私たちの心が作り出した観念ということになる。だが、そうだとすると、砂糖という物質は私たちの心の中にだけあって、外的世界には存在しないものになるのか。これと同じようなことは、他人の心についても言える。私は他人の存在を様々な知覚を通して確信するようになったのだが、その確信は私の心のなかの出来事でしかない。そもそも、他人というものが私の心の外に独立した存在としてあるということが、どうして言えるのか。このアポリアは後にカントが「物自体」として取り上げる。ロックはその存在に軽く触れ、深い考察は避けたと思われる。ロックは私たちの素朴な実在論の力を知っていて、簡単に実体を否定できないと思っていたのではないか。他人がいなければ家族も社会もない。
 恋をするのは私たちがもつ生得的な能力に依存する。外の世界にいる恋人を知り、恋に落ちることが幻想でないことは、祖先以来引き継いできた習性だからである。私たちの実在論は私たちの関心に依存している。関心は眼前の環境をつくり、濃淡のある個体が醸成され、多くの人の共通項が環境として浮かび上がってくる。情報の処理は観念レベルで行われるが、処理される筈の対象は切ったりはったりができない実在物である。
 関心に相対的な実在論を私たちはもつ。生活に相対的に実在するのが私たちが対象や事象と呼ぶものである。私たちの生活における実在論はムラのある実在論で、それはムラのある経験から来ている。現実の知識、思想がムラのある不公平さをもつことが人間の特徴そのもので、言語や哲学は公平でムラのない議論を積み重ねて偏見のない思想を生み出すことが可能だと思われてきたが、それが不可能というのが素朴実在論の主張なである。
 唯心論的な観念論はバークリー(George Berkeley 1685-1753)に始まる。バークリー以前の観念論は、人間の精神活動から生じる観念を実体的なものと捉えており、それを個人の精神活動のなかに閉じ込めることはなかった。観念的なものはそれ自体が普遍的な存在システムとして、個々の人間の心を超えて実在している。ところが、バークリーはそのような観念的な実在を個々の人間の心の中に閉じ込めた。彼によれば、どんな実在も心的なものである。私たちが自分の外部にある物質的な存在と思っているものは、実は私たちが知覚したものに過ぎない。私たちは自分の知覚に基づいて、対象の色や形を知るが、それは私たちの心の中に知覚されているのであって、心の外にあるのではない。私たちが知ることができるのは、知覚として心の中に現れたものだけである。バークリーは、心の外に心から独立した物質的な対象など存在しないと主張した。これこそ公平で偏向のない反実在論で、彼は知覚経験が途方もなくムラのある偏見に満ちたものでしかないことを否定してはいない。
 デイビッド・ヒューム(David Hume 1711-1776)は、ロックが始めた経験論的なアプローチを究極まで突き進める。彼は実体が虚構であることを暴露し、さらに人間の精神活動を支えている実体としての自我の存在まで否定した。バークリーは認識の対象となっているものが客観的に独立した存在であることを否定し、すべては人間の心の中で起きているに過ぎず、したがって、存在するのは人間の心のみであると主張した。この限りでバークリーは、心の実体性を信じていたが、ヒュームは人間の心から実体性まで剥奪した。彼は心の存在を否定したのである。ヒュームにとっては、どんなに高度な精神作用も印象とその再生としての観念に帰着する。さらに、彼はどんなに高度で複雑な観念も、それは構成要素としての個々の観念に分解されると考えた。そして、それらの観念は必ずそれに対応する印象を背後にもっている。したがって、どんなに抽象的な観念も、その中に個体的な要素を中に含んでいることになる。
 外的事物が客観的なものとして存在しないように、自我も存在しない。人間が自分について知りうることは、知覚や観念の働きを通じて、そこに作用している自分の心の状態だけである。その心の状態を知ることと、それの担い手としての自我そのものを知ることとは異なる。人間は決して自我そのものを知覚することができない。人間が自分について知ることができるのは、経験を通じての様々な印象や観念の経過、あるいは内省の中で働く心の動きだけである。このことから、ヒュームは人間の心を知覚の束に還元してしまう。彼は人間の心とは知覚のプロセスそのものであり、その背後に知覚の主体としての自我を措定する必要はないと考えた。
 ヒュームが知覚する世界は一様に観念が連合するだけで、ムラがない。だが、私たちの経験にはムラがあり、それを巧みに前提しているのが「風景」、「景色」、「景観」である。それらの背後には人の欲望がうごめき、それを巧みに使う人の魂胆がひしめいている。美の背後にそれを支える醜が横たわり、そのお蔭で私たちは美を堪能できるように、風景の背後にも悍ましいものが横たわり、そのお蔭で私たちは風景を堪能し、楽しんでいる。風景の利用は人間の五感すべてにかかわり、それを利用した芸術が庭園である。庭園の知覚経験を通じて庭園が観念でしかないとは誰も思わないだろう。庭園には美の喜びや楽しみが息づき、人は風景を味わう、楽しむという「美的経験」をもち、未来・現在・過去という時間の制約から暫し解放されるのである。土を踏み、土をいじるときの不思議な安堵感、薪を割るときの心地よい手応え、野山を散策するとき、浜辺で潮風に吹かれるときの自然との一体感や開放感、新緑にみる生命力の喜び、夏の照りつける陽射しと木陰とのコントラストの鮮明さ等々、自然の中で私たちは身体的経験、美的経験をするのである。
 そこでは素朴実在論が前提され、風景は観念連合から生み出されるのではなく、風景が観念連合を生み出すのである。

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