我流の哲学史雑感(12)

ホッブスの哲学
 トーマス・ホッブス(Thomas Hobbes 1588-1679)は、近代的な政治思想をはじめてシステマティックに展開した政治思想史上の偉人だけでなく、哲学史上もユニークな地位を占めている。彼の哲学思想はプラトン以来の伝統とは無縁で、デカルト以降の大陸のどの哲学者とも異質だった。彼は経験を重視する態度を前面に出し、ロック以降のイギリス哲学を特徴づける経験論を先取りしていた。
 ギリシャ以来の哲学思想では常に「存在とは何か」が中心の問題となってきた。デカルトは人間の意識を持ち出すことによって、存在に先立つ意識を人々に気づかせたが、その目的は明証的な存在を確信することにあった。だが、ホッブスはこうした議論を無意味なものとして、あっさり切り捨てる。彼の思想の根底にあるのは、徹底した唯物論唯名論である。まず、ホッブスは「非物質的な実体」を否定した。なぜなら、実体的な観念は端的に誤りだからである。人間がもつ観念は意識の一部に過ぎなく、それ自体が独立して存在できるものではない。観念論者はある種の観念が生得的だと主張することによって、それが人間の意識から独立した存在であることを証明しようとする。だが、そのような観念はどこにもなく、人間は自らの経験を通じて観念を獲得していく。観念が生ずるのはあくまで経験的な学習によってである。
 次に、ホッブスは普遍的な観念を言葉の作用と結びつけて考える。私たちは様々な対象に名前をつけるが、それは思考をよりスムーズにするための約束事である。私たちは名前をもつ言葉を使うことによって、抽象的に考えることができるようになる。普遍的な観念は能率がよく、私たちはそれを用いて高度な思考を遂行できる。だが、それはあくまでも言葉の機能によるのであり、言葉がなければ観念も、まして普遍的な認識も成り立たない。
 人間の認識作用は物質的な基礎の上に成り立っている。私たちの認識作用は物質との相互作用に基づくので、物質的な法則に支配されている。こうした決定論的な見方は、人間の情動を巡る機械論的な見方に通じていく。人間には生来一定の傾向としてある種の運動が備わっている。これが何ものかに向かうときには欲望となり、遠ざかろうとする場合には嫌悪となる。愛とは欲望と同じものであり、憎しみは嫌悪と同じものである。そしてあるものが欲望の対象であるとき、私たちはそれを善と呼び、嫌悪の対象であるときは悪と呼ぶ。また、意思とは欲望や嫌悪と異なったものではなく、それらが確固とした形をもって人間に迫る場合を指している。
 このようにみてくると、ホッブスは観念的なものに重要性を与えていないように見えるが、彼は一方で数学を大いに尊重していた。観念は物質的な起源を持っているとはいえ、観念相互の関係は数学の数式と似たところがある。論理学は観念相互の関係を扱う学問であるが、それは数学の考え方とよく似ている。経験重視の態度と数学の尊重とはそれまでなかった組み合わせである。今日では科学的な常套の方法となっているこのアプローチを、ホッブスは意識的に採用した最初の思想家だった。
ロックの経験論
 ジョン・ロック(1632‐1704)の『人間知性論』(1690年)は、最初の経験論的な認識論である。知性の本質的な仕組みは何か、これがロックの中心テーマである。知性を越える物ごとには慎重に距離を置き、私たちの能力が到達できない物ごとの探究は止めるという意味で、形而上学の終了というロックの主張が展開される。世界や人間の理性について制限なく論じてきたこれまでの試みは誤りで、経験と観察可能な領域を考察の対象に限定すべきだとロックは主張する。
 この点でロックの主張は、デカルト批判となる。デカルトの『方法序説』によれば、人間は理性によって世界を合理的に推論し、その全体像を理解することができる。理性は誰もが等しくもっているので、理性の使い方を間違えないかぎり、世界についての推論は共通のゴールに達することができる。だが、そのようなことは可能なのか。私たちに与えられているのは知覚経験だから、着目すべきは理性ではなく、経験である。ロックの認識論が経験論とされるのは、この方法的態度に由来する。ロックは知性の対象は観念であるから、観念を探求しなければならないと考えた。観念は人間が何かを考えるとき、知性の対象を表現するのに最も役だつ名辞なので、ついこの語(観念)を使ってしまう。日常的な世界像では、意識の外側に事物が存在するのが当然である。しかし、これを厳密に考えてみると、本当に世界が存在しているかどうか、また、私の見ている世界が意識の向こう側にある世界と同じかどうかを証明することは、原理的に不可能である。なぜなら、誰も自分の主観から抜け出て対象そのものを確認することはできないからである。
 さて、ロックによれば、心は経験することによって観念をもつようになる。心は最初文字をまったく欠いた白紙であり、そこに観念はないと想定しよう。どのようにして心は観念をもつようになるのか。どこから心は理知的推理と知識のすべての材料を手に入れるのか。その解答が経験である。まず、感官によって与えられる感覚が、対象の性質の観念を心に備えつける。その次に、観念についての内省が起こり、最後は内省自身もまた反省的に捉えられ、それによって知識が生じる、とロックは考える。このプロセスは今様に言えば情報処理プロセスであり、図式的にまとめると、およそ次のようになる。
対象 → (感官) → 観念が心に置かれる → (内省) → 知識
 ロックは知覚や知性の直接の対象が「観念」であり、この観念を生み出す能力はその能力をもつ「主体の性質」だと考える。およそ心が自分自身のうちに知覚するもの、つまり、知覚とか思惟とか知性とかの直接対象となるものが観念である。「主体の性質」と聞くと奇妙な感じがするが、対象の性質がいわば主体的に働いて、その結果として私たちが観念を抱くということである。ロックによれば、そうした性質は二種類ある。第一性質(一次性質)と第二性質(二次性質)である。第一性質とは、私たちの心が、物体そのものに固有であり、物体から引き離すことができない性質のことを指している。たとえば大きさや形である。一方、第二性質とは、第一性質に基づき生み出される感覚(能力)のことである。第一性質である大きさや形からもたらされる色、音、味などである。
 心は単純観念をもとにして複雑観念を作る。ロックによれば、ここまで考察してきた観念は単純観念であり、心がいわば受動的に受け取るものである。これに加えて、心が単純観念をもとにして自ら作り上げる観念もある。これをロックは複雑観念と呼ぶ。心は、そのすべての単純観念を受けとるに当たってまったく受動的である。だが、心自身の働きをいろいろ発動させて、単純観念から生み出すのが複雑観念である。ロックが単純観念だけではなく複雑観念を取り上げたのは、「意味」のあり方が関わっている。私たちは、単純観念は対象からたんに意味を受け取るだけだが、それだけでなく、対象に意味を与えてもいる。それを可能にするのが複雑観念の役割である。
 ロックによれば、そうした複雑観念は三種類ある。実体、様相、そして関係である。実体とは個々の単純観念の全体像、様相は実体の性質(状態)、関係は個々の単純観念を比較することで作られる観念である。関係が複雑観念であるかどうかはともかく、それを観念と考えることは認識論的に言って妥当なものである。普段、私たちは何らかの関係を、世界のうちにそれ自体として存在していると考えている。しかし、よく考えてみると、関係は具体的な事物として存在しているわけではない。関係は目に見えないけれど、確かに存在する。この二つの事実を「関係=複雑観念」説はうまく調停してくれる。関係は私たちの知覚経験にかかわらず存在しているわけではない。それは私たちの知覚、主観に相関して存在する。
 ロックの認識論のなかで、その後の哲学上のアポリアになったものがある。それは実体についてのロックの見方を巡るものである。実体とは私たちの心に単純観念を引き起こす様々な性質の担い手であると考えられる。私たちは白くて、砂のようにさらさらとして、匂いはないが甘い味のするあるものに「砂糖」という名称を与えて独立の物質として認識するが、この砂糖という言葉で意識されるものが、ロックによれば実体に相当する。ところで、この実体とは何ものなのか。それは私たちが単純観念をもとにして、それらを相互に関係づけることによって導き出してきた観念である。したがって、それは私たちの心が作り出した観念ということになる。だが、そうだとすると、砂糖という物質は私たちの心の中にだけあって、外的世界には存在しないものになるのか。これと同じようなことは、他人の心についても言える。私は他人の存在を、さまざまな知覚を通して確信するようになったのだが、その確信は私の心のなかの出来事でしかない。そもそも、他人というものが私の心の外に独立した存在としてあるということが、どうして言えるのか。このアポリアは後にカントが「物自体」として取り上げる。ロックはとりあえずその存在に軽く触れ、深い考察は避けたと思われる。