実在、言語表現、感覚質経験の間のギャップ(3)

<色の場合>
 色はその感覚と知識の違いが際立つ例です。色が実在すると信じる画家と色の知識を追求する科学者は色について共通の理解があるのでしょうか。印象派の画家は色彩学者と意見を同じくする必要はありません。色の感覚質(クオリア)と第二性質としての色はほぼ同じというのが私たちの直感です。実在する色、第二性質やクオリアとしての色、そして知識としての色は重なり合う共通点をもちながらも、それぞれ違うものだというのが私たちのおよその見解ではないでしょうか。タイトルの「ギャップ」はまさにこのことを表現していたのです。
 早熟な子供なら誰もが空想してしまうような思考実験の一つが、次のような逆転スペクトル(Inverted spectrum)の話です。例えば、私と隣人が同じ紙を見ていても、私には赤く見え、隣人には青く見えている状況が考えられるというのです。この場合、隣人には「赤」という言葉がその紙の「青い色」を指しているのですから、言葉では感覚している質(クオリア)の逆転を知ることができないことになります。紙の青と他の色とを区別できるのですから色盲テストもパスできるし、信号が赤に変われば隣人は私と同じように停まります。私と隣人の振る舞いのテストで判定できるのは、二人の外界の対象を弁別する力であって、二人の内的な経験の相違ではないのです。二人のクオリアは「機能」的に同じであり、外的な振る舞いも同じです。でも、二人は異なったクオリアを経験しています。
 この思考実験の意義の一つは、心的現象の本質は「機能」だという機能主義(functionalism)はクオリアの問題を取りこぼしているというものです。心的現象の代表は意識ですが、その意識の意味は機能的な役割だというのが認知心理学の通常の考えです。もう一つの意義は、心的現象は物理現象に論理的に付随(supervene)しないというものです。心的なものは脳の生理現象の一部であり、それに付随するというのが心脳一元論的な見方です。ですから、実証的、科学的に心を解明できることへの異論、反論の一例が逆転スペクトルの思考実験の意義ということになります。
 上の話はもっと精緻なシナリオにして、注意深く再構成しないとうまくいきません。言葉は一人の個人の所有物(私的言語)ではなく、共同体に共有されないと成立しません。ですから、二つの異なる共同体が異なる惑星で異なる対象を同じ言葉で表現すると言った状況が必要になってきます。このシナリオ作りは哲学の専門論文に任せることにして、少々慎重に上の話を吟味してみましょう。
 「赤く見える」や「青い色」の赤や青は誰の赤や青なのでしょうか。色盲テストで使う色は誰の色でしょうか。さらに、社会の中で標準的な色のシステムを決める時には誰の色を使うのでしょうか。色彩科学は成立するのでしょうか。成立しなければ、絵具メーカーは何を基準に絵具を作ればいいのでしょうか。こんな疑問が次々と湧き出してくるのですが、それはシナリオの設定がまずいからです。でも、シナリオの修正によっても残る真の問題が明らかになってきます。その問題を突き詰めれば、次のような問いに到達することになります。

色を感覚する以外の仕方で色のクオリアを具体的に実現するにはどうすればいいのか。