赤い実の赤(4)

 ヘレン・ケラー全盲全聾でありながら、言葉の獲得によって、私たちと同じように人間として生活することができた。ほぼ動物だったヘレンを人間に変えたのがサリバン女史。人類が言葉を獲得することによって進化の歴史の中で主役になれたように、ヘレンも言葉を知ることによって人間になることができた。ヘレンは私たちと同じように言葉を通じて世界を知るという方法を手に入れ、私たちと同じように学習し、知識を獲得することになった。これは、視覚、聴覚に障害があっても、言語があれば知識を手に入れることができることの立派な証拠になっている。では、全盲全聾のヘレンにとって色や音の感覚質(クオリア)は言葉によってどのように変わったのだろうか。
 サリバンがヘレンと最初に出会った時、彼女は我が儘で癇癪持ち、欲望を叶えられなければ暴れるだけだった。そんなヘレンを相手に、サリバンはまず「モノに名前がある」ことを教えようとする。言葉を腕などになぞるのだが、ヘレンは綴られたスペルは再現できても、その意味を理解できない。ケーキを食べる前に何度も綴らせ、「ケーキを食べる」行為と結びつけ、習慣をつけようとした。人形がほしい時、水が飲みたい時、ヘレンはその行為に関連する言葉を綴るようになるが、物の名前としては理解していなかった。だが、ヘレンはあるきっかけで、ものに名前があることに気づく。井戸水の流れを感じ、ものに名前があることを理解するのだ。

 「生理学的感覚」から「人としての感覚」を手に入れるには何かが必要である。二つの感覚の違いは何なのだろうか。クオリアは生理的感覚なのか、それとも人としての感覚なのか。いずれであれ、各個人の間で同じかどうかの保証がない。クオリアが生得的な感覚だとすれば、それは誰にも同じ筈で、違うかどうかという問いは意味がないようにみえる。だが、個人差、変異があることを事実として認めるなら、生得的でも違いがあることになる。そして、それを確かめるには言語を通じたコミュニケーションに頼るしかない。それゆえ、「赤」を知るには「赤」という言葉を知ることが不可欠となる。こうなると、クオリアと言葉の関係はヘレンの経験とダブルのである。
 ところで、合理論と経験論を総合しようとしたカントが、その著書『純粋理性批判』の中で、経験そのものを考察し、経験を成立させるために必要な条件として考えたのが、「物自体」。「感覚によって経験されたもの以外は、何も知ることはできない」というヒュームの経験論の主張を受けて、カントは経験を生み出すために「物自体」が前提される必要があると考えた。そして、彼はその「物自体」を私たちが経験することはできないとも考えた。つまり、物自体は知ることができず、因果律に従うこともないという、いわば謎の実体である。クオリアと実在、そして物自体は互いによく似ている。いずれも言葉ではない。にもかかわらず、言葉を通じてしかわからず、それゆえ知ることができないのである。
 そのためか、クオリアの存在と実在論は同じ構制をもっている。実在が理論に相対的な存在であるのと同じように、クオリアはコミュニケーションに相対的な存在である。では、物自体はどうなのか。物自体は経験される事物に相対的な実体だと言いたくなるのだが、不思議なことにカント研究者の間でも一致した見解はないようである。

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