密教、禅宗、そして浄土真宗:我が故郷の我が神仏習合(4)

妙高とその周辺の神仏習合の歴史

(1)国分寺とエミシ

 奈良時代を代表する元号が「天平(てんぴょう)」。この時代に唐の影響を強く受けた「天平文化」が開花しますが、天災、疫病の流行などが次々に起こり、決して平和で安泰な時代ではありませんでした。聖武天皇は、そのような厳しい状況に対して中国伝来の「仏教」によって国を守ろうと考えました。鎮護国家(国を守る)のために仏教を信仰し、仏教の力で国を守り、治めようとしました。

 国分寺(こくぶんじ)は741(天平13)年に聖武天皇が仏教による国家鎮護のために日本の各国に建立を命じた寺院であり、国分僧寺(こくぶんそうじ)と国分尼寺(こくぶんにじ)に分かれます。越後国にも国分寺が造られましたが、それを引き継ぐ寺院が五智国分寺(ごちこくぶんじ)で、上越市五智にある天台宗の寺院です。

 坂上田村麻呂は平安時代初期の武将です。785(延暦4)年従五位下となり、越後守(えちごのかみ)などを兼任していましたが、征夷大将軍となり、802年胆沢(いさわ)城を築き鎮守府(ちんじゅふ)をここに移し、蝦夷(エミシ)平定に大きな功績を残しました。

 さて、「蝦夷」は「エミシ」とも「エゾ」とも読むことができます。読み方が違うのはなぜでしょうか。日本に小さなクニが生まれたのは弥生時代のことで、やがてクニとクニが戦い、より大きなクニができていきました。中でも、近畿地方の「ヤマト政権」は中国大陸や朝鮮半島と交流し、進んだ文化を取り入れて、強大なクニ(今の西日本)になりました。天皇中心の政治のしくみが整い、平城京(奈良時代)や平安京(平安時代)といった都ができました。これが日本の原型です。

 この頃の関東・東北地方は「東国」と呼ばれ、日本の外にある国でした。農耕を営み、同じような生活をしていても、日本国民ではなく、日本国民と区別するために「エミシ」と呼ばれていました。奈良時代の末、都では土木工事や軍備増強のため、財政が厳しくなり、「エミシ」を統合し、税を徴収しようと、大軍が送られました。平安時代に入ると、桓武天皇は坂上田村麻呂を征夷大将軍に任命し、「エミシ」を屈服させようとしました。彼の活躍で、岩手県の北部までが「日本」に統合されます。でも、さらに北には、まだ「日本」の支配に属さない人々がいました。これらの人々が「エゾ」と呼ばれたのです。

 

(2)延喜式(えんぎしき)

 10世紀に編纂された『延喜式』は、古代の役人(官人)の業務マニュアル、つまり行政の仕事の細則集です。その分量は全50巻、約3540条に及び、役人が職務遂行のために諸規定、祭祀(さいし)や儀礼、宮中の備品や調度類とその原材料、食品、医薬品、繊維製品等々、実に様々なものを記した「古代の百科全書」です。醍醐天皇の命により905年に「養老律令」の施行細則を定めたのが始まりで、927年に完成します。

 「格」、「式」は古代日本の基本法である律令の施行細則で、格と式の明確な区別はありません。『延喜式』はほとんどが現存し、平安時代の社会を知るための貴重な歴史史料となっています。律令の施行細則は既に奈良時代から必要に応じて所管部署で作成、施行されていましたが、しっかり統合されていませんでした。そこで、整理され、編纂されたのが『延喜式』です。

 『延喜式』(50巻)には、神祇(じんぎ、神々のこと)関係の法規が冒頭10巻にわたり記されています。その巻9「神名上」、巻10「神名下」は、それら神祇関係の法規が適用される神社名を列記したもので、この2巻、つまり『延喜神名式』(『延喜式神名帳(じんみょうちょう)』)に記載された当時の官社3132座が「式内社」と呼ばれています。それゆえ、それら神社は『延喜式』成立の927年以前に創建された、由緒ある神社ということになり、斐太神社もその一つなのです。

*『延喜式神名帳』に記載された神社を「延喜式の内に記載された神社」という意味で「延喜式内社(えんぎしきないしゃ)」、または単に「式内社」といい、一種の社格(神社の格式)になっています。「神名帳」は当時の神祇官が作成した官社の一覧表のことで、国・郡別に神社が羅列され、祭神、社格などが記されています。越後国の神名帳には(妙高地域では)大神社、斐太神社が挙げられています。その大神社の一つが関山神社で、斐太神社も関山神社も共に式内社ということになります。

 

(3)斐太神社と関山神社

 妙高市の代表的な神社は山間部にある関山神社と平野部にある斐太神社です。既述のように斐太神社も関山神社も式内社ですが、それぞれの神社としての特徴は随分異なります。「出雲大社系の斐太神社」、「修験道の関山神社」というのが二つの神社を特徴づけるキーワードになるでしょう。

 斐太神社は出雲大社と伊勢神宮の両方の流れをくむ神社です。大国主命(おおくにぬしのみこと)を主祭神に、事代主命(ことしろぬしのみこと)と建御名方命(たけみなかたのみこと、諏訪大神)を祀っていることから、出雲大社や諏訪大社とよく似ています。でも、かつては天照皇大神も祀られていたことから、出雲系だけでなく、伊勢神宮の影響もあったことがわかります。出雲文化が北陸から頸城野を通り、信州へ、そして諏訪にまで到達することを示しているのが斐太神社の存在です。

 さて、日本の宗教の特徴の一つが「神仏習合」。その神仏習合の具体例が「修験道」で、その見事な具体例が関山神社です。山岳信仰と仏教が習合し、江戸時代には宝蔵院という別当寺(べっとうじ、神社を管理する寺)と一体化していたのが関山神社です。近くにある戸隠神社も同じような神仏習合の神社です。

*修験道

 熊野那智大社の御本尊は如意輪観音菩薩(にょいりんかんのんぼさつ)で、創建は4世紀とされています。仁徳天皇(312〜319)の時代、インドから来た裸形上人(らぎょうしょうにん)が各地を巡歴し、那智大滝で修行しました。その後、役行者(えんのぎょうじゃ)、弘法大師(こうぼうだいし)等の高僧が修行し、神仏習合の場となりました。修験道は自然のものや現象に霊が宿るとして信仰の対象にした古い神道に山岳信仰と仏教が習合して成立しました。日本各地の霊山を修行の場とし、「験力(げんりき)」を獲得して人々の救済を目指す宗教です。妙高山も霊山とされ、関山神社はその裸形上人が開基とされています。神道の八百万(やおよろず)の神々は様々な仏が化身として現れたもの、つまり、権現(ごんげん)であるとされ、関山権現の祭神もそれぞれ仏の生まれ変わりとされました。

 

(4)親鸞

 名号(みょうごう)と呼ばれる「南無阿弥陀仏(なむあみだぶつ)」は、私には「なまんだぶ」と祖父母が仏壇の前で唱えていた念仏ですが、今でもそれを聞く人がいるかも知れません。妙高市の寺院の9割以上は浄土真宗ですから、市民の多くは門徒(もんと、浄土真宗の信者)です。妙高市は浄土真宗の独占状態が続いてきました。では、どうして妙高市はこれほど門徒が多いのでしょうか。その理由は親鸞にあるのですが、彼の教えが庶民に広がり、妙高市は農民からなる在郷地域だったからでもあります。彼は1173年日野有範(ひのありのり)の長男として京都に生まれ、1181年に出家し、比叡山で修行することになりました。以後20年も比叡山で修行を続けるのですが、仏教の真理(悟り)を見出すことができず、1201年京都の六角堂で「法然(ほうねん)に会え」という聖徳太子のお告げを聞きます。親鸞の師である法然は浄土宗の開祖で、その教えのエッセンスは「専修念仏(せんしゅうねんぶつ)」と呼ばれ、「南無阿弥陀仏」と唱えれば、誰もが浄土(じょうど)に往生(おうじょう)できるというものでした。南無阿弥陀仏の「南無」は「頼りにする、信仰する」という意味で、南無阿弥陀仏は「阿弥陀仏様、私はあなたを信じています」という意味です(キリスト教の「アーメン」は「その通りです」という意味で、似ていなくもありません)。法然のもとで親鸞は6年間を過ごしました。二人とも「南無阿弥陀仏と唱えれば、人は救われる」という教えに天台宗とは違う新しい可能性を見出したのです。自然の災害から逃れ、国の安寧を求めるのが神道やそれまでの仏教だとすれば、彼らは個人の心の苦悩を解決し、人々を救う仏教を目指したのです。

 1207年、「承元(じょうげん)の法難(ほうなん)」と呼ばれる事件が起こります。法然の弟子が女官とスキャンダル事件を起こしたのです。後鳥羽上皇の怒りは浄土宗にも及び、法然とその弟子たちは京都から追放されました。親鸞も流罪となり、越後国へ流されることになります。親鸞が35歳の時です。

 親鸞は直江津の居多ケ浜(こたがはま)に上陸し、五智国分寺本堂脇の竹之内草庵に住みました。約1年をそこで過ごし、次に移り住んだのが現在の国府別院の地である竹ケ前(たけがはな)草庵です。彼はこの越後時代に愚禿親鸞(ぐとくしんらん)と名乗るようになりました。

 1211年11月越後に来て5年後、法然とともに赦免となった親鸞は、師との再会を願いつつも越後に留まります。1214年、親鸞42歳で、関東での布教活動のため家族や門弟たちと共に越後を離れ、信濃善光寺を経て常陸(ひたち、今の茨城県)に入った親鸞は、以後20年間を精力的に布教に努め、主著となる『教行信証(きょうぎょうしんしょう)』を書き始めます。60歳を過ぎたころ、妻子と共に京都に帰ります。帰京して『教行信証』を完成させ、1262年親鸞は90歳の生涯を閉じます。

 ところで、親鸞と結婚し、越後から常陸、京都へと同行したといわれる恵信尼(えしんに、1182(寿永元)年-1268(文永5)年?)ですが、驚いたことに、何世紀も経た1921(大正10)年に真実が明らかになります。恵信尼は親鸞が亡くなる数年前に末娘の覚信尼(かくしんに)に親鸞の世話を任せ、郷里の越後板倉(現上越市板倉区)に帰っています。その頃京都にいる覚信尼に宛てた文書『恵信尼消息』10通が、時を超えて西本願寺の宝物庫から発見されたのです。

*親鸞は笠間郡稲田郷(茨城県笠間市稲田町)に稲田禅坊(いなだぜんぼう)を開きました。彼はこの禅坊を浄興寺(じょうこうじ)と名づけました。彼は浄興寺で十余年過ごし、京都へ戻ります。この浄興寺は紆余曲折を経て、1567(永禄10)年上杉謙信の招きで高田(現上越市)に移ります。それが現在の浄興寺です。

*現在の浄興寺住職は26代目で、確か高校では私と同級でした。

 

(5)我が故郷の浄土真宗の本性

 妙高市の寺院の9割以上が浄土真宗です。神仏習合の関山(権現)神社、寛永寺の末寺宝蔵院に代表される妙高地域の修験道と上杉謙信と林泉寺の曹洞宗は歴史的な遺産、遺物として観光には適していますが、妙高市の住民の多くにはほぼ無関係で、彼らは今でもほぼ門徒です。自力を強調する修験道や禅宗とは好対照に、門徒は他力を特徴とします。多くの人にその自覚はなくても、自力の宗教に接するなら、大抵の人は自分の宗教観を疑う筈であり、それがそれまで自分が無自覚に他力の宗教の中にいたことを感じることになるのです。それを自覚し、親鸞の仏教の経緯と特徴から頸城の浄土真宗を考えてみましょう。

 まずは、浄土真宗のエッセンスが述べられている『歎異抄』を取り上げましょう。『歎異抄』に魅せられ、そこから人生を歩み出した人は意外に多く、仏教を信じていなくても哲学や倫理として読んだ若者が20世紀には沢山いました。文章が見事だというだけでなく、異安心の糾弾を通じて親鸞の教えを説く迫力は凄まじく、それだけで魂を掴まれるような書物です。そのためか、解説書の類は数知れず、莫大な数になります。『歎異抄』の10章までは親鸞の教えを述べ、11章から18章までは親鸞没後に登場した異安心の教説を質したものです。ですから、「異なることを歎く」という『歎異抄』のタイトルは11章から18章がその部分にあたります。

 『歎異抄』が親鸞の教えを述べる見事な表現は周到な論理構成に基づき、巧みなレトリックを駆使した作品になっていて、その内容は親鸞の天才を見事に表現しています。また、異安心を通じて真宗の正しい他力本願の教えを徹底したいという『歎異抄』の目論見は成功しているのですが、それには前半のパラドクシカルな謂い回しが大いに寄与しています。それがあの有名な第3章の冒頭「善人なおもって往生を遂ぐ、いわんや悪人をや」です。それはパラドクシカルな一文にみえますが、実は論理的な破綻などなく、読み手の心を鷲掴みにします。そして、それが『歎異抄』の魅力となっているのです。では、なぜこれが整合的な主張なのか、それを考えてみましょう。

 旧約聖書には、アダムとイブの堕落以後、その子孫がユダヤ民族をつくり、堕落によって追放されたエデンの園に再び帰っていく歴史が述べられています。ユダヤ民族は神の国(地上天国)を建設するために、神に選ばれた選民とされています。そして、堕落した人間を救済するために、神から救世主としてキリストがユダヤ民族に遣わされました。でも、救世主を待ち望みながらも多くのユダヤ人たちはイエスを救世主と認めず、十字架につけて殺害してしまいました。ユダヤ教では、キリストを救世主とは認めていません。ユダヤ教の教典は、『タナハ』(『旧約聖書』と同じ書物)で、その内の『モーセ五書』はトーラーと呼ばれ、教典の重要部分になっています。これに対して、キリストの説いた教えは『新約聖書』となり、キリスト教の教典になっています。ですから、「旧約」、「新約」という表現は、キリスト教的な表現なのです。地上天国へユダヤ民族を導く神と交わされた契約を「旧約」とし、キリストを信じる者を神は救済するという契約は「新約」です。

 キリスト教は生まれながらに原罪を持つ人間を救済するために、神から無原罪のマリアを通じてキリストが遣わされたとする救済の宗教です。キリストは人類すべての罪を自ら背負って十字架上で亡くなり、3日後に復活しました。そのキリストを信じることによって、人間の原罪は贖われ、神に許されるというのがキリスト教の救済論です。

 さて、『歎異抄』の3章を確認し直しておきましょう。

 

善人なおもって往生を遂ぐ、いわんや悪人をや。

(善人でさえ救われるのだから、悪人はなおさら救われる。)

しかるを世の人つねにいわく、「悪人なお往生す、いかにいわんや善人をや」。

(ところが、世間の人は常に「悪人でさえ救われるのだから、善人はなおさら救われる」と言っている。)

この条、一旦そのいわれあるに似たれども、本願他力の意趣に背けり。

(これは一見それらしく聞こえるが、阿弥陀仏が本願をたてられた趣旨に反する。)

そのゆえは、自力作善の人は、ひとえに他力をたのむ心欠けたる間、弥陀の本願にあらず。

(なぜならば、自分の力で後生の一大事の解決をしようとしている間は、他力をたのむことができないので、阿弥陀仏の約束の対象にはならないのである。)

しかれども、自力の心をひるがえして、他力をたのみたてまつれば、真実報土の往生を遂ぐるなり。

(しかし、自力をすてて他力に帰すれば、真実の浄土へゆくことができる。)

煩悩具足の我らはいずれの行にても生死を離るることあるべからざるを憐れみたまいて願をおこしたまう本意、悪人成仏のためなれば、他力をたのみたてまつる悪人、もっとも往生の正因なり。

(欲や怒りや愚痴などの煩悩でできている私たちは、どうしても迷いを離れることができない。それを阿弥陀仏がかわいそうに思われて本願をおこされたねらいは、悪人成仏のためだから、阿弥陀仏のお力によって、自惚れをはぎとられ、醜い自己を100%照らし抜かれた人こそが、この世から永遠の幸福に生かされ、死んで極楽へ往くことができるのである。)

よって善人だにこそ往生すれ、まして悪人は、と仰せ候いき。

(それで、善人でさえ助かるのだから、まして悪人はなおさら助かると仰せになった。)

 

 引用が長くなりましたが、これは日本宗教思想史上で最も有名な文章と言われています。「善人なおもって往生を遂ぐ、いわんや悪人をや」と必ずどこかに出てきます。「往生」とは、助かるということですから、「善人でさえ助かるのだから、まして悪人は助かる」となれば、パラドクスではないのか、しかもそれが親鸞の言葉ということですから、誰もが驚きます。では、その真意は何かとなって、様々な解釈が出てくることになりました。本当に親鸞は「知識や能力を取り去った愚か者でなければ助からない」と述べているのでしょうか。

 『歎異抄』の展開はどのようになっているのでしょうか。世間では「悪人でさえ助かる、だから善人はなおさら助かる」と受け取られています。このような考えは一見もっともらしく聞こえますが、それとまったく逆のことが第3章で言われています。なぜ親鸞はこんなことを言ったのでしょうか。目的は一つで、「本願他力の意趣(意味)を明らかにするため」です。「善人なおもって往生をとぐいわんや悪人をや」は本願他力の意趣にあっていますが、「悪人なお往生す、いかにいわんや善人をや」は本願他力の意趣に背いています。「本願他力の意趣」とは阿弥陀仏の本願のことで、『歎異抄』第1章では「弥陀の誓願」と表現されています。阿弥陀仏のその約束とは、この世を未来永遠に「絶対の幸福」にすると誓った約束です。

 さて、ここからが私の仮説の話です。それは、阿弥陀仏は「万人は悪人だ」と見抜き、その悪人と約束したと考えてみるという仮説です。約束の相手は善人ではなく、助かる縁がない悪人です。悪人に対して約束したのが阿弥陀仏の本願なのですが、「万人=悪人」と親鸞が考えたのであれば、『歎異抄』の第3章は至極当たり前の主張となります。悪人も善人も見掛けの区別に過ぎなく、どちらも本来は悪人なのだ、つまり万人は悪人だとなれば、「善人なおもって往生を遂ぐ、いわんや悪人をや」と「悪人なおもって往生を遂ぐ、いわんや善人をや」とは論理的には同じことを述べている文に過ぎないことになります。

 原罪と救済の関係が、悪人と本願の関係に重なっています。救済や本願を必要とするのは、人の本能が煩悩を引き起こすことにあります。アダムとイヴが人の「知る」という本能に目覚め、自由意志をもち、欲求をもつようになることと、人が生得的に煩悩に苦しむこととはこの現世の世界では同じようなことです。そして、その救済にはキリストや阿弥陀仏の他力に頼ることしかないという主張もよく似ています。

 まとめれば、(1)万人は悪人(罪人)である、(2)本能は煩悩である、(3)救済は他力による、の三つの事柄がキリスト教と浄土真宗に共通していて、それらが見事に述べられているのが『聖書』であり、『歎異抄』なのです。そして、これが謎に対する私なりの答えのアウトラインです。

 さて、ここからが日本的な親鸞の立場の話であり、これまでのわかりやすい原理的な親鸞とは違っています。親鸞は神仏習合の宗教状況の中に生きながらも、阿弥陀仏への専念を通じて神祇信仰(日本の古代からある天の神と地の神(天神地祇、神祇)を対象とした信仰の形態)を相対化し、独自の神祇観を示しました。彼の仏教は神仏習合の枠組みを受け入れつつも、それを超える「念仏者の救済」を中心に据えています。親鸞は神祇を「善鬼神(仏道修行者を守護する超人的な存在)」と位置づけ、『御和讃』で「天神地祇はことごとく善鬼神となづけたり」と記し、神々は念仏者を守護する存在であると捉えました。これは神々を否定するのではなく、阿弥陀仏の救済のもとに位置づけることによって、神仏習合的な世界観を再構成したものです。門弟平太郎が熊野社参詣をめぐって親鸞に相談した際、親鸞は「熊野権現は阿弥陀如来が仮に現れた姿」と説明。これは本地垂迹説に基づく解釈であり、親鸞が神仏習合説を用いて念仏者の信仰を守った例です。親鸞は神祇信仰を「迷信」や「雑行」として批判する一方で、神々が念仏者を守る存在であるとする「護念」思想も展開しました。これは神仏習合の宗教状況に対する柔軟な対応であり、排除ではなく再解釈による超越を目指した姿勢です。

 こうして、「論理的にはあり得ないのだが、「(真面目な)門徒は(真面目な)氏子である」ことが真であり、それが日本の神仏習合の実際の姿なのである。」ことが親鸞自身によって認められたことになり、門徒は氏子として祭りに参加できるのです。

 

(6)異安心とおたや

 最後に私が強い関心を持つ二つのことに触れておきます。私の最初の関心は異安心(異端)です。願生寺編『新・願生寺正鑑』(2023、法藏館)は第一部から第四部までの534ページに及ぶ願生寺の歴史とその資料からなっています。小児往生の異安心に関して願生寺と浄興寺の間の論争は私にはとても興味深いものです。浄土真宗の小児往生の議論は近世の教団確立期に大きく揺れ動き、まだ信心を得ていない小児に往生が可能なのか、不可能なら弥陀の本願に背くのではないかという疑問は、「異安心(いあんじん)」問題として何度も議論されてきました。

 この問題が論争となった舞台が越後。越後と北信濃に触頭寺院(ふれがしらじいん)として絶大な力を誇っていた新井(現妙高市)の願生寺と親鸞の居多ケ浜上陸以来のゆかりの有力寺院だった高田(現上越市)の浄興寺との間に教義論争が起こります。多くの末寺門徒と本山東本願寺を巻き込んだ論争の裁定には寺社奉行までが乗り出す始末となりました。論争となった問題は「小児(15歳以下の者)は往生して仏になれるか」でした。「小児は往生できる」という浄興寺方と、「小児は往生できない」という願生寺方との主張が真っ向から対立し、論争は願生寺方が敗れて終わります。その結果、願生寺は取り潰され、新井掛所、そして、新井別院へと姿を変え、浄興寺は自らの地位を守りました。

 願生寺の跡には新井掛所がつくられ、その報恩講が「おたや」として定着し、明治に入り、掛所が「新井別院」に変わっても、おたやは秋の一大行事として発展しました。

 次の私の関心は姫川原(現妙高市姫川原)の正念寺です。江戸時代に真宗学(親鸞の仏教思想を研究し、その内容を明らかにする学問)の学寮(寺院で僧侶が生活し、学問研究をする建物)を設けていた寺院が姫川原にある正念寺で、一時我が家は檀家になっていて、私も何度も祖父母と共に正念寺に行ったのを憶えています。私は姫川原の寺と呼んでいましたが、まだ小学校入学前ですから、正念寺が三葉勧学精舎として有名だったことなど一切知りませんでした。私がよく行っていたのは昭和の30年代初めですから、当然ながら既に学寮はありませんでした。

 正念寺は本願寺派(西本願寺)に属しています。江戸時代後期、正念寺は「三葉勧学精舎」と呼ばれました。江戸後期に六世興隆、僧朗、慧麟の親子三代の住職が西本願寺の学林の教授となり、正念寺に崑崙社(こんろんしゃ)という学寮をつくり、その学寮に学僧を寄宿させて、真宗学を教えていました(崑崙は中国古代の伝説上の山)。今でも山門の前に「三葉勧学精舎」の大きな碑があります。75年程の間に932名の学僧が学んでいますから、年平均12~3名ということになります。

*カトリックの神学は自然神学と啓示神学とに分かれ、トマス・アキナスがそれらをまとめましたが、真宗学は浄土真宗の宗祖親鸞の思想を研究し、明らかにする学問です。他力本願の思想、二種深信、悪人正機、二種回向などが研究対象になります。江戸時代になると、東西本願寺がそれぞれ学寮や学林を設け、学生を寄宿させて真宗学を学ばせました。また、私塾が全国的に勃興し、その実力は学林を凌ぐ力を持っていました。正念寺の崑崙社もそのような真宗学の塾の一つでした。訓練中心の禅問答に比べると、真宗での論争は真剣そのものでした。特に、異安心(異端)に関わる論争は有名で、高田の浄興寺と新井の願正寺の論争はその一例です。明治以降、東西の本願寺は西洋式の大学制度を取り入れ、現在の龍谷大学や大谷大学になっています。