町興しなどで使われる過去の超人たちは容姿や行動が具体化されていないと話にならない。その超人たちを皆のスターにする典型的手段が芸能を通じてのデフォルメである。かつては能、歌舞伎などが主要な芸能で、それらを絵画によって伝達する浮世絵も含め、様々な手段を巧みに活用することによって、超人たちは日本の庶民たちの記憶の中に着実に定着していった。祭の山車に登場する超人たちの大半は能や歌舞伎に登場してきた超人たちで、山車でのポーズ、衣装、場面などは舞台のシーンを切り取ったものがほとんどであることを思い出してみてほしい。それが今でも映画やゲームで似たような物語と行動パターンによって若者たちのヒーローが昔と変わらずに活躍している。
1156(保元元)年7月に起こった「保元の乱」は皇位継承の朝廷内の内紛が原因で、後白河天皇と崇徳上皇の分裂に源氏と平氏の武力が加わった政変。この乱で活躍したのが後白河天皇側の義朝で、彼の作戦に従った後白河天皇方は崇徳上皇を襲撃して勝利を収める。平清盛は義朝側で戦った。その結果、崇徳上皇は讃岐に流され、源為義は斬首、源為朝は伊豆大島に流されている。
1159(平治元)年12月の「平治の乱」は、「保元の乱」によって生じた朝廷内での対立から起こる。「保元の乱」後、後白河天皇は天皇親政を行い、そこで権勢を誇ったのが信西。後白河天皇が皇位を二条天皇に譲ると、信西と藤原信頼が対立する。一方、源氏と平氏の間でも、保元の乱での勲功第一の源義朝より、戦功の薄い平清盛の方が高い恩賞を受けていて、義朝の不満が増大していた。信頼と義朝は、清盛が熊野詣に出掛けている隙に、後白河上皇と二条天皇を幽閉し、信西邸を襲撃する。しかし、清盛は急ぎ帰洛し、二条天皇を六波羅邸に移し、信頼・義朝追討の宣旨を賜り、信頼と義朝を破る。この戦いに勝利した清盛は平氏政権の基礎を築くことになる。
「平治の乱」は13歳の源頼朝の初陣だった。しかし、結果は源氏の大敗に終わり、平頼盛の追手によって捕らえられる。父義朝は尾張国野間で長田忠致に暗殺され、兄の義平、朝長も討死した。清盛は頼朝を処刑するよう命じるが、清盛の継母池禅尼の懇願によって一命を助けられ、伊豆国へ流される。弟の希義・今若(全成)・乙若(義円)・牛若(義経)もそれぞれの地に流される。
この頃活躍した熊坂長範はあちこちの熊坂(例えば信濃町の熊坂)の出身とされ、中山道などで旅人の金品を奪っていたようである。金売吉次と義経が奥州に向かうことを知り、熊坂長範は手下を揃えて宿を襲う。ところが牛若丸は滅法強い。たちまち多くの部下が切られる。長範は長刀を引き抜いて牛若丸に挑むが、牛若丸は一刀のもとに熊坂の首をはね、あまりに鋭く切られたので、長範は切られたことにも気づかず、逃げる途中で喉のかわきを覚え、水を飲もうとしたとき、初めて頭が落ちたとのこと。熊坂長範は越後との国境にある信濃国水内郡熊坂に生まれたと伝わる。熊坂から北国街道を渡れば、妙高高原である。熊坂長範が能として芸能化される際、人々は彼の伝説の何に注目し、何を表現しようとしたのか。昔話、伝説などが能や歌舞伎に作り変えられていく際、それを構想した人々の思いが凝縮している筈で、そこに私たちは自らの祖先の思想や感情を垣間見ることができる。例えば、長範伝説の何が人々を惹きつけ、芸能として何を表現し直そうとしたのか。これまで私が強調してきた一つが慈円の『愚管抄』の背後にある思想であり、言い換えれば、仏教の形而上学と人間観である。
それを具体的に見てみよう。熊坂長範を扱った「烏帽子折」は「現在熊坂」と呼ばれ、夢幻能の「熊坂」は「幽霊熊坂」と対比して呼ばれてきた。「烏帽子折」では、斬り合い、チャンバラの場面が見どころである。熊坂長範は大太刀を持ち、その他11人が太刀、薙刀を持って牛若丸に斬って掛かる。「烏帽子折」は(この世、顕界、生活世界で進行する)現在物の曲であり、牛若丸、熊坂の手下が登場し、派手に夜討ちの場面が演じられる。「烏帽子折」はアクロバティックなチャンバラによって観客を魅了する。それに対して、「熊坂」は熊坂長範の霊であるシテが長刀を持ち、彼の記憶の中の舞台で、やはり縦横無尽に動いて夜討ちの場面を再現して見せる。同じような立ち回りでも二つの能は違う。「烏帽子折」の派手な顕界の戦いに対して、「熊坂」の冥界の戦いは長範を弔うためのものであり、特定の誰かを恨み、呪うものではない。
石川五右衛門、鼠小僧と並ぶ大盗賊であり、彼らよりずっと権威のある先輩盗賊が熊坂長範であり、東洋のロビン・フッドと言えないこともない。「烏帽子折」、「熊坂」では金売吉次が長範に襲われ、襲った長範は吉次と同行していた牛若丸に討たれてしまう。その経緯の物語が「烏帽子折」。そして、その後日談が「熊坂」である。熊坂長範は平安時代に生きた伝説の大盗賊。「熊坂」のヒーローは牛若丸であり、悪いことは悪い、悪い奴は悪い、というメッセージを明確に表現している。だから、改心しない熊坂長範は牛若丸に退治される。死後、長範の霊は生前の悪業のために誰も弔ってくれないことを嘆く。死んだからこそわかったことを、死者がメッセンジャーになり夢の中の出来事のように伝えるのである。これは能ならではの独特の手法。
昔話や伝承など、ふるさとに残る伝説や物語を材料にして、巧みにそのシナリオを練り直し、思想、宗教などを込めて芸能化することが歴史的に行われてきた。その代表的な芸能形態が能と歌舞伎。ローカルな昔話や伝説がそれら芸能によって人々に歓迎され、流行し、全国的に知られることになった。では、知られることなく埋まったままの物語はどうなっているのか。過疎化によってふるさとが滅んでいく中には伝説や昔話の消滅も含まれている。だから、ふるさと創生の中に伝説や昔話の掘り起こしと、記録として書き残すこと、そして、新しい魅力的な改訂が求められている。そこから新しい芸能が様式も含めて生まれるかも知れない。
*立烏帽子を激しく動いても脱げないように折り畳んだものが折烏帽子。
さて、蝦蟇仙人(がませんにん)は中国の仙人で、青蛙神を従えて妖術を操るとされ、それが日本に渡り、『自来也説話』、『児雷也豪傑譚』に登場することによって、日本では重要なキャラクターになった。中国で著名な八仙を差し置いて、日本ではもっぱら蝦蟇仙人が人気を博すことになる。その蝦蟇仙人と同じように蝦蟇の妖術を使う仙人が仙素道人(せんそどうじん)で、彼が住むのが妙香山(妙高山)。児雷也は妙高山で仙素道人から蝦蟇の妖術を学び、自らは黒姫山に住むことになり、大蛇丸と戦うことになる。大蛇と蝦蟇は中国由来の化け物であり、これに蛞蝓(なめくじ)が加わり、人々を惹きつけること間違いなしの「三すくみの戦い」というシナリオが出来上がったのである。
『児雷也豪傑譚(じらいやごうけつものがたり)』を歌舞伎に仕立てたのは河竹黙阿弥。元の物語は足利時代で、大蛇が乗り移った大蛇丸は執権照友に取り入り、彼の養子となって天下に大乱を巻き起こそうと考える。その軍勢に攻め滅ぼされた尾形家の嫡子雷丸と松浦家の綱手姫は共に大蛇丸に谷底に突き落とされる。しかし、二人は妙高山の仙素道人に救われ、共に成長し、それぞれ蝦蟇の妖術と蛞蝓の妖術を授かり、夫婦となって、敵を討ち、お家再興のために旅に出る。
初演は1852年で、八代目市川團十郎(いちかわだんじゅうろう)が児雷也、二代目市川九蔵(いちかわくぞう)が仙素道人と盗賊夜叉五郎(やしゃごろう)と富貴太郎(ふきたろう)の三役、三代目嵐璃寛(あらしりかん)が高砂勇美之助(たかさごゆみのすけ)、三代目岩井粂三郎(いわいくめさぶろう)が妖婦越路を演じた。妖術を使う児雷也を当時人気随一だった八代目團十郎が演じるとあって評判となり、1855年5月にはその続編となる「児雷也後編譚話(じらいやごにちものがたり)」が上演された。
私たちには冥界は見えない。冥界の存在者たちには顕界のことごとくが見え、そのため私たちは冥界の存在を仏像、仏画、御伽草子、読物、能、歌舞伎等々によって間接的に表現してきた。どのような手段、方法が冥界をうまく描き、冥顕思想を表現できるかは時代と共に変化してきた。絵画、彫刻、文学、演劇は正に冥界と顕界を自由に往来する手段として使われ、私たちに夢や希望、恐怖や絶望を与えてきた。