雑談「熊坂長範」

(これまでの熊坂長範に関する文章をまとめたものです。)

 熊坂長範は幸若舞、能、歌舞伎、御伽草子等々で取り上げられ、様々に語られ、演じられてきました。大泥棒の長範ですが、十か所以上の出身地があり、実在したかどうかはわかりません。私は古典芸能など素人ですが、大学時代に能のクラブにいましたので、能の中の熊坂長範から話を始めてみましょう。

 まずは歴史的な事実の確認です。1156(保元元)年7月に起こった「保元の乱」は、皇位継承の朝廷内の内紛が原因で、後白河天皇崇徳上皇の分裂に源氏と平氏の武力が加わった政変です。この乱で活躍したのが後白河天皇側の義朝です。義朝の作戦に従った後白河天皇方は、崇徳上皇を襲撃して勝利を収めます。平清盛は義朝側で戦いました。その結果、崇徳上皇は讃岐に流され、源為義は斬首、源為朝伊豆大島に流されています。

 1159(平治元)年12月の「平治の乱」は、「保元の乱」によって生じた朝廷内での対立から起こります。「保元の乱」後、後白河天皇天皇親政を行い、そこで権勢を誇ったのが信西でした。後白河天皇皇位二条天皇に譲ると、信西藤原信頼が対立します。一方、源氏と平氏の間でも、保元の乱での勲功第一の源義朝より、戦功の薄い平清盛の方が高い恩賞を受けていて、義朝の不満が増大していました。信頼と義朝は、清盛が熊野詣に出掛けている隙に、後白河上皇二条天皇を幽閉し、信西邸を襲撃します。しかし、清盛は急ぎ帰洛し、二条天皇六波羅邸に移し、信頼・義朝追討の宣旨を賜り、信頼と義朝を破ります。この戦いに勝利した清盛は平氏政権の基礎を築くことになります。

 「平治の乱」は13歳の源頼朝の初陣でした。しかし、結果は源氏の大敗に終わり、平頼盛の追手によって捕らえられます。父義朝は尾張国野間で長田忠致に暗殺され、兄の義平、朝長も討死しました。清盛は、頼朝を処刑するよう命じますが、清盛の継母池禅尼の懇願によって一命を助けられ、伊豆国へ流されます。弟の希義・今若(全成)・乙若(義円)・牛若(義経)もそれぞれの地に流されます。

 この頃活躍した熊坂長範はあちこちの熊坂(例えば信濃町の熊坂)の出身とされています。中山道などで旅人の金品を奪っていたようです。金売吉次義経が奥州に向かうことを知り、熊坂長範は手下を揃えて宿を襲います。ところが牛若丸は滅法強い。たちまち多くの部下が切られます。長範は長刀を引き抜いて牛若丸に挑みます。ところが、牛若丸は一刀のもとに熊坂の首をはね、あまりに鋭く切られたので、長範は切られたことにも気づかず、逃げる途中で喉のかわきを覚え、水を飲もうとしたとき、初めて頭が落ちたとのこと。 

 さて、熊坂長範が主人公の能の演目は「烏帽子折」(えぼしおり)と「熊坂」(くまさか)の二つです。金売吉次が長範に襲われ、吉次と同行していた牛若丸が長範を討つ物語が「烏帽子折」で、その後日談が「熊坂」です。

<「烏帽子折(えぼしおり)」の曲芸と身体性>

 大雑把に言うと、能には世俗世界を扱う現在能と、幽霊世界を描く夢幻能があります。「烏帽子折」は現在能、「熊坂」は幽霊能と分けることができます。「熊坂」のシテは亡者(=死人)であり、今は「幽霊熊坂」と呼ばれています。主人公は自分が幽霊でありながら、祟(たた)ることなく自らの生前の行いを懺悔し、苦悩を述べます。能の幽霊は歌舞伎と違って祟りません。他者を恨み、祟る亡者ではなく、自省する亡者なのです。「熊坂」には、夢に出た亡者が苦悩を吐露し、仏教による救済を求めというパターンが色濃く出ています。これは苦しむ死者、懺悔する神を仏教によって救済するという神仏習合なのです。

 烏帽子は男性の冠物(かぶりもの)で、上部を折り曲げて作るところから「烏帽子折」は烏帽子を作ること、またその職人を指します。「烏帽子折」は宮増の作品で、宮増には分らないことがたくさんあります。個人ではなく集団の名だという説もあります。他にも多くの作品が残っていて、いずれも演劇的な構成が特徴です。この「烏帽子折」も台詞を中心にして演劇的な展開を持ち味にしたダイナミックな作品です。

 そのテーマは義経東下りで、源氏の烏帽子折の逸話と熊坂長範との戦いとを絡ませています。義経東下りには、金売吉次が同行することになっていますが、この曲でも吉次は前半で登場し、牛若丸を世話します。でも、後半になると吉次は消え、牛若丸が一人で長範らに立ち向かい、屈服させてしまいます。少年の牛若丸が大の男たちを切り伏せるところが痛快な能です。

 この曲は、前シテが烏帽子屋の亭主、後シテが熊坂長範で、前後でシテが入れ替わり、しかも烏帽子屋と熊坂長範ですから、互いに何の関係もないのです。また、どちらも現在進行形の役柄である点で、世阿弥の複式夢幻能とは対極的です。牛若丸は子方の役ですが、事実上はこれがシテと変わらぬ役を果たしています。

 追っ手の目を欺こうと元服して髪を切り、烏帽子をつけることを思いつき、烏帽子屋を訪れた牛若丸は何としても左折のものを所望します。この平家一色のご時世に、源家の象徴の左折を望む若者を烏帽子屋は不振に思います。左折の烏帽子について語るうちに烏帽子が出来上がります。烏帽子をつけた牛若の姿はたいそう気高く立派です。そして、烏帽子の代金に、持っていた刀を渡しますが、あまりに見事な刀に驚き、烏帽子屋は妻を呼び寄せます。この妻は実は、源義朝に仕えた鎌田正清の妹であり、その刀は自分が使者として牛若丸が生まれたときに渡したものでした。そして、夜明けとともに牛若は奥州へと発つのです。

 牛若たち一行が赤坂宿に着くと、悪党熊坂長範たちが夜討ちにやってくるらしいということが知らされます。吉次たちは早々に宿を発とうとしますが、牛若は自分が斬り伏せるととどまらせ、夜襲に備えます。そこに熊坂の配下の小盗がやってきます。牛若を見つけ、松明を投げ入れると、宙で切り落とされ、踏み消され、投げ返されます。そして、熊坂と手下たちがやって来ます。手下たちは牛若と戦って切り倒されます。そして、熊坂も切り倒されるのです。

 「烏帽子折」は現在能で、幽玄とは反対の身体運動が強調されます。バレエに身体性を強調するダンスが不可欠であるように、現在能の舞台で舞うには武芸に通じたアクロバティックな身体的な運動が不可欠なのです。牛若と長範の争いが曲芸の如くに演じられ、人々は演者の巧みな身のこなしに驚嘆するのです。でも、これが幽霊能の「熊坂」になると、違った側面が見えてきます。

神仏習合と幽玄性>

 熊坂長範を扱った現在能は「烏帽子折」で、これを「現在熊坂」とも呼ぶのに対して、夢幻能の「熊坂」は「幽霊熊坂」と呼ばれてきました。では、「烏帽子」と違って、「熊坂」はどのような曲なのでしょうか。旅の僧が美濃国赤坂で一人の僧に出会い、ある人の命日なので供養をしてほしいと頼まれます。誰の供養なのかも告げられず、庵室には仏像もなく、そこには沢山の武具が置いてあるだけです。不審に思い尋ねると、この辺りには盗賊が出るので、その時にはこの武具を持って助けに行くのだと説明します。やがて、謎の僧が寝室へ入ると、庵室は消え失せ、辺りは草むらになります。地元の男から、これは熊坂長範の幽霊に違いないと言われます。弔っていると、熊坂長範の霊が現れ、牛若丸に討たれた様子を見せ、消え失せてしまいます。

 「熊坂」の前場面はシテもワキも僧の役で同じ扮装で登場する珍しい演目です。後場面では、長刀を使って牛若丸と戦うさまを一人芝居で演じるのですが、それが見せ場となっているのです。「熊坂」のヒーローは牛若丸です。熊坂長範は生きている間改心することがなく、そのため牛若に退治されます。旅の僧に対して熊坂長範の霊は自分が準備している武具は盗賊退治のためであると述べ、生前の悪業の為に誰も弔ってくれないことを嘆くのです。

 既述のように、主人公は自分が幽霊でありながら、誰かに祟(たた)ることなく自らの生前の行いを懺悔し、苦悩を述べます。熊坂の幽霊は歌舞伎などと違って祟らないのです。他者を恨み、祟る亡者ではなく、自省、自戒する亡者なのです。「熊坂」には、夢に出た亡者が苦悩を吐露し、仏教による救済を求めというパターンが色濃く出ています。これは苦しむ死者、懺悔する神を仏教によって救済するという典型的な神仏習合なのです。

 能では身体と精神を対立させ、現在能と夢幻能などと区別します。そして、幽玄性が強調されますが、所作で体現することと、深い思いや感情を観る人に感じさせることが重要なのは言うまでもありません。「熊坂」は盗賊熊坂長範が金売吉次の一行を襲い、一行に加わっていた牛若(義経)に逆に切り伏せられる場面を長範の霊が再現するところがクライマックスとなっています。長範の怒りや悔しさがダイナミックな動きによって表現されているのですが、面をつけて視界が限られ、重い装束でしかも長い薙刀を振り回しながらの「飛び返り」を見ていると、これは若い肉体でないと所作のキレは出ないのではないかと思ってしまいます。幽玄性や精神性の方が強調されがちの能にあって、「熊坂」は幽霊能でありながら、身体の持つダイナミックな動きが強調された(つまり、チャンバラの面白さをもった)現在能の側面を強く持っているのです。

 能の面白さは熊坂長範がどこで生まれ、どのような人間だったかという史実とは別のところにあります。彼が大泥棒であったことが大事なのではなく、そのことが牛若丸と戦うことになり、その際の彼の心理的葛藤と戦いの劇的な表現そのものが重要だったのです。演劇も文学も、重要なのは史実ではなく、それを通じた人の生き様、死に様なのです。「熊坂」には死んでも苦悩する熊坂の幽霊が仏教に魂の救済を求めるという構図が見事に演劇化され、身体と精神が巧みに絡みついて表現されています。

 長霊癋見(ちょうれいべし)という面は、熊坂長範が登場する『熊坂』、『烏帽子折』の専用面で、長範の霊ということから長霊癋見(「べし」は能面の中の鬼神面のこと)と名付けられました。画像の面は東京国立博物館蔵(金春家伝来)、江戸時代(17世紀)、「天下一近江」焼印、重要文化財です(Wikipedia)。

<熊坂長範の落語>

 義経伝説ほど日本人の心を捉えて離さない伝説はありません。義経は文学、芸能のきっかけであり、目的でもありました。『源氏物語』が貴族文学の代表とすれば、武家文学の最初の代表が『平家物語』やその異本である『源平盛衰記』でしょう。義経文学は様々な文学形態にわたり、驚くべき多くの作品を生み出してきました。既に紹介した能の「烏帽子折」、「熊坂」はその中の代表的な作品であり、幸若舞、歌舞伎、浄瑠璃等にも多くの傑作が溢れています。

 既に能については述べましたので、落語に焦点を当ててみましょう。『源平盛衰記』を落語化したものは、略して「源平」と呼ばれます。源義経の生い立ちから、常磐御前(ときわごぜん)、熊坂長範、木曽義仲鵯越(ひよどりごえ)、屋島、壇ノ浦と、源氏が平家を滅ぼすまでを、義経に合わせて物語って行きます。これは大変長いので、落語では部分的に扱われ、演者によって話す部分が違ってきます。どの噺も古典の『平家物語』の一部ですから、会話より説明が多い地噺となり、噺家のセンスが問われます。「源平盛衰記」は談志が三平から習い、そこに当時の世相や時事問題を練り込み、早口でスピーディーな展開によって客を圧倒し、革新的な噺に変えたと言われています。

 さて、それに連なるものに「熊坂」があり、五代目三升屋小勝が得意にしていました。これは有名な大泥棒たちについての小噺のようなもので、熊坂長範が最後に登場します。牛若が小手を打つと、長範が薙刀を取り落とし、すかさず薄緑の名刀で首を切るのですが、血が出ません。そこで今度は向こう臑を払って、倒れた身体を踏むと、血が出ずに、餡が出たのです。そこで、「これは熊坂で無く今阪だ、潰して出たから潰し餡(あん)で御座います。」で終わります。今坂(阪)は餡の入った菓子で有名な店で、今坂と熊坂をかけている訳です。

 では、「熊坂」に出てくる盗人の辞世の句を比べてみましょう。

武蔵野にはびこる程の鬼薊(おにあざみ)、けふの暑さに今ぞ凋(しお)るる

万年も生きよと思う亀五郎、たった百両で首がすっぽん

石川や浜の真砂は尽きるとも、世に盗人の種は尽きまじ

 単なる洒落で済まされないのが最後の石川五右衛門の辞世の句です。彼の句を私のように解したのでは粋(いき、すい)ではなく、無粋の極みだと断じる人が多い筈ですが、私にはこの句が深遠な真理を言い当てているように思えてならないのです。「広い砂浜の砂粒の数がどのように大きくても、数えていけばいつかは終わるのに、盗人の遺伝子は次から次と伝わり、際限なく子孫に遺伝していく」という内容で、何とも理詰めの句で、生き物としての人のもつ業を冷静に表現しているのです。それが石川五右衛門の反骨精神のエッセンスだと考えると、痛快にさえ思えてならないのです。

 浜の真砂の数は有限に過ぎなく、それに対して絶滅しない限りは盗人の数は可算無限個(countable infinity)で、それが生き物の本性だというのがこの句の主張です。数学的根拠付きで人の本性を読み解く、さすがは石川五右衛門だと感服する次第です。