仮面をつける演劇の代表の一つが能です。物語の冒頭に登場するワキによって、観客はシテのいる冥界(あの世)へと誘われ、曲がスタートします。能は話の筋を追うのではなく、主題となる「悲しみ」や「苦しみ」の内容や、クライマックスに向かって演じられる仕舞がもつ「高揚感」そのものを味わうように創作されています。
では、能ではなぜ仮面をつけるのでしょうか。主役のシテは神や鬼、幽霊など冥界の存在で、観客はそのシテを通じて冥界を垣間見ることになります。私たちの顕界(この世)と冥界をつなぐシテは、冥界の存在に変身することが求められます。能面を身につけることは「つける」ではなく、「かける」と呼ばれています。つまり、魔法にかけられ、「変身、憑依」したのがシテなのです(この世の化粧も簡便な変身)。
「能面のような顔」という表現は無表情で何を考えているかわからない様子を指しますが、能面は本当に無表情なのでしょうか。たしかに、能面だけを眺めると、その表情は読み取りにくく、無表情に感じます。でも、物理的には変わることのない筈の硬い木でできた能面を通して、私たちは豊かな表情を舞台上で見ることができます。演者によって命が吹き込まれること、観客が投影する心情による効果は大きいのですが、実は能面の「曖昧な表情」や「非対称な作り」に秘密があるのです。「曖昧な表情」は「中間表情」などとも呼ばれますが、表情の要素になるものを少しずつ備えていると考えられています。これが演者の表現技術と結びつくことによって多様な表情が生まれるのです。また、能面は左右が「非対称な作り」になっています。その違いは「陰と陽」と呼ばれ、私たち自身の顔も左右非対称です。さらに、顔の上下の動きでも表情は変化します。能では、やや仰向けにすると高揚した様子(「照ル」)、少しうつむくと陰りのある様子 (「曇ル」) が表現されます。ほんの少しの角度の違いによって喜びや幸福感、いじらしさや悲しみに暮れる様子、恥じらいや絶望など、様々な表情を感じさせることができるのです。
このような能の面の役割を私たちの仮面についての考えと比べてみましょう。「本当の自分など本当はわからないものだ」といった表現が人々に受け入れられやすいのはなぜでしょうか。「本当の自分」と「本当はわからない」に現れる「本当」とは本当のところ何なのでしょうか。一方で、「仮面の自分しか見せない」ことに後ろめたさを覚えるのは私だけではない筈です。人はみな仮面をつけて、本当の自分を隠しながら生きていると思われています。それが現在の仮面観で、本当の自分を隠すのが仮面の役割だと考えられています。
能は面をかけて演じる仮面劇と思いがちですが、面をかけるのは主人公のシテ役一人だけです。シテが面をかけないで演じる曲もあり、それが直面(ひためん)。能の面はシテの心を隠す仮面ではなく、心を間違いなく、直截に表わす仮面なのです。心の状態は類型化された能面によって表現され、ステレオタイプ化された表情となっているのです。現代人にとって心を隠す仮面は、能ではステレオタイプ化された心の状態を顔によって表すために仮面が用いられてきたのです。