雑談「熊坂長範」(3)神仏習合と幽玄性

 熊坂長範を扱った現在能は「烏帽子折」で、「現在熊坂」とも呼ぶのに対して、夢幻能の「熊坂」は「幽霊熊坂」と呼ばれてきました。では、「烏帽子」と違って、「熊坂」はどのような曲なのでしょうか。旅の僧が美濃国赤坂で一人の僧に出会い、ある人の命日なので供養をしてほしいと頼まれます。誰の供養なのかも告げられず、庵室には仏像もなく、そこには沢山の武具が置いてあるだけです。不審に思い尋ねると、この辺りには盗賊が出るので、その時にはこの武具を持って助けに行くのだと説明します。やがて、謎の僧が寝室へ入ると、庵室は消え失せ、辺りは草むらになります。地元の男から、これは熊坂長範の幽霊に違いないと言われます。弔っていると、熊坂長範の霊が現れ、牛若丸に討たれた様子を見せ、消え失せてしまいます。

 「熊坂」の前場面はシテもワキも僧の役で同じ扮装で登場する珍しい演目です。後場面では、長刀を使って牛若丸と戦うさまを一人芝居で演じるのですが、それが見せ場となっているのです。「熊坂」のヒーローは牛若丸です。熊坂長範は生きている間改心することがなく、そのため牛若に退治されます。旅の僧に対して熊坂長範の霊は自分が準備している武具は盗賊退治のためであると述べ、生前の悪業の為に誰も弔ってくれないことを嘆くのです。

 既述のように、主人公は自分が幽霊でありながら、誰かに祟(たた)ることなく自らの生前の行いを懺悔し、苦悩を述べます。熊坂の幽霊は歌舞伎などと違って祟らないのです。他者を恨み、祟る亡者ではなく、自省、自戒する亡者なのです。「熊坂」には、夢に出た亡者が苦悩を吐露し、仏教による救済を求めというパターンが色濃く出ています。これは苦しむ死者、懺悔する神を仏教によって救済するという典型的な神仏習合なのです。

 能では身体と精神を対立させ、現在能と夢幻能などと区別します。そして、幽玄性が強調されますが、所作で体現することと、深い思いや感情を観る人に感じさせることが重要なのは言うまでもありません。「熊坂」は盗賊熊坂長範が金売吉次の一行を襲い、一行に加わっていた牛若(義経)に逆に切り伏せられる場面を長範の霊が再現するところがクライマックスとなっています。長範の怒りや悔しさがダイナミックな動きによって表現されているのですが、面をつけて視界が限られ、重い装束でしかも長い薙刀を振り回しながらの「飛び返り」を見ていると、これは若い肉体でないと所作のキレは出ないのではないかと思ってしまいます。幽玄性や精神性の方が強調されがちの能にあって、「熊坂」は幽霊能でありながら、身体の持つダイナミックな動きが強調された(つまり、チャンバラの面白さをもった)現在能の側面を強く持っているのです。

 能の面白さは熊坂長範がどこで生まれ、どのような人間だったかという史実とは別のところにあります。彼が大泥棒であったことが大事なのではなく、そのことが牛若丸と戦うことになり、その際の彼の心理的葛藤と戦いの劇的な表現そのものが重要だったのです。演劇も文学も、重要なのは史実ではなく、それを通じた人の生き様、死に様なのです。「熊坂」には死んでも苦悩する熊坂の幽霊が仏教に魂の救済を求めるという構図が見事に演劇化され、身体と精神が巧みに絡みついて表現されています。

*画像の長霊癋見(ちょうれいべし)という面は、熊坂長範が登場する『熊坂』、『烏帽子折』の専用面で、長範の霊ということから長霊癋見(「べし」は能面の中の鬼神面のこと)と名付けられました。画像の面は東京国立博物館蔵(金春家伝来)、江戸時代作の重要文化財です(Wikipedia)。

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