妙高の児雷也

 妙高市の祭に児雷也は登場していたのでしょうか。青森のねぶた祭や盛岡の祭には山車の演題として児雷也が何度も登場してきましたが、私の記憶の中の妙高の祭には児雷也はいませんでした。でも、近年の観光パンフレットには苗名滝(地震滝)に児雷也の洞窟があったと記され、児雷也伝説の森などと呼ばれています。そこで、その辺のモヤモヤした謎を明らかにし、児雷也妙高市の英雄になれるかどうか考えてみましょう。

 自来也児雷也(じらいや)は江戸時代後期の読本(よみほん)に登場する架空の盗賊で忍者です。明治以降、歌舞伎や講談などへの翻案を通して、蝦蟇(がま)の妖術を使う代表的な忍者キャラクターとして認められ、映画・漫画・ゲームなどに登場してきました。少々古い話ですが、1921年公開の牧野省三監督の映画『豪傑児雷也』は日本初の特撮映画で、主演した尾上松之助の代表作となりました。

 日本の物語作品に自来也が初めて登場するのは、感和亭鬼武(かんわていおにたけ)の『自来也説話(じらいやものがたり)』(1806(文化3)年)です。この読本(よみほん)のタネ本が宋代の説話文学の一つで、沈俶『諧史』の中の「我来也(がらいや)」(『唐宋伝奇集(下)』(今村訳、岩波文庫)所収の「怪盗我来也-我来也」)です。ここに登場する「我来也」は顕界(=生活世界)のスマートな盗賊で,襲った家に「我来也(われきたるなり)」と書き残します。これを翻案した読本『自来也説話』では冥界の自来也となり、幻怪の構想が人気を博し、やがて合巻や歌舞伎などによって、蝦蟇の妖術を駆使して権力に立ち向かう児雷也像が幕末から明治にかけて民衆に広く定着しました。

 「中世の熊坂長範」が長野県信濃町出身であるのに対して、「近世の児雷也」が激闘を繰り返す舞台は妙高山黒姫山、そして戸隠山。能の「熊坂」に対して、歌舞伎の「児雷也」と対比できます。信越(北信)五岳は斑尾山妙高山黒姫山戸隠山飯縄山で、そこは古来伝説の山岳地域です。山賊、野盗、忍者が活躍するのに相応しいのは平坦な穀倉地帯ではなく、険しい山岳地帯です。信越五岳のある信濃町長野市妙高市に加え、上越市、さらには立山(富山)までを含む地域が舞台となり、児雷也綱手(つなで)、大蛇丸(だいじゃまる)という登場人物が三つ巴になって戦うのが『児雷也豪傑譚(じらいやごうけつものがたり)』の基本構図です。

 そして、児雷也の奇譚は歌舞伎になり、浮世絵で様々に描写されてきました。私の子供の頃のぼんやりした記憶の中には児雷也の漫画(杉浦茂「少年児雷也」(『少年』、1956))があり、映画やテレビ番組もありました。そんな昭和の記憶より、『週刊少年ジャンプ』に連載された人気マンガ『NARUTO-ナルト-』と言えば、今の若者にもすぐわかる筈です。そこには様々な忍者が出てきますが、伝説の三忍の一人で、ナルトの師匠が自来也自来也児雷也のことで、江戸時代後期の読本に登場する架空の盗賊・忍者で、妙高山由来の蝦蟇の妖術を使って大活躍するスーパー・キャラクターです。

 『児雷也豪傑譚』は文化3年に刊行された読本『自来也説話』を下敷きに、天保10年から明治元年にかけて刊行された合巻(ごうかん)で、主人公の盗賊・忍者「児雷也」、ヒロインの「綱手(つなで)」、児雷也の宿敵「大蛇丸(おろちまる)」を主役に据えた物語が展開されます。最初の作者は美図垣笑顔(みずがきえがお)、その後は一筆庵主人(いっぴつあんしゅじん)、柳下亭種員(りゅうかていたねかず)、柳水亭種清(りゅうかていたねきよ)が順に執筆します。全43編中28編と3分の2以上を柳下亭種員が担当しました。この柳下亭種員は全ての合巻中で最長の人気作品「白縫譚(しらぬいものがたり)」の初代作者で、人気の戯作者でした。挿絵は浮世絵で有名な歌川一門の絵師が担当しました。

 このように戯作者や絵師たちが集団で約30年もの長期に渡り作り続けてきたのが『児雷也豪傑譚』です。でも、最終の第43編で物語が大団円を迎えたわけではなく、幕末・明治維新の混乱のためか、未完で刊行が途絶えたままになりました。この作品に基づく歌舞伎狂言児雷也豪傑譚話(じらいやごうけつものがたり)』は今でも公演されていいます。

 『児雷也豪傑譚』が読者を魅了した最大の仕掛けが「三すくみ」の構図です。自来也が初めて登場するのは、山東京伝滝沢馬琴の弟子である感和亭鬼武(かんわていおにたけ)が文化3年(1806)に刊行した『自来也説話』で、読者を魅了したのが「三すくみ(さんすくみ、三竦み)」の構図です。三人が互いに得意な相手と苦手な相手を持つことで、三者とも身動きが取れなくなるのが三すくみ。つまり、AはBに勝ち、BはCに勝ち、CはAに勝つ、という関係で、通常のじゃんけんのグー(石)、 チョキ(はさみ)、パー(紙)がその典型例です。「石」は「はさみ」をうち砕き、「はさみ」は「紙」を切り刻み、「紙」は「石」を包み込むという訳です。

 自来也は越後の妙香山の蝦蟇仙人から「蝦蟇の術」を授かります。その自来也の妻は越中立山に住む蛞蝓(かつゆ)仙人から「なめくじの術」を得た美女綱手で、最大の敵は青柳池の大蛇から生まれた大蛇丸。彼は「へびの術」を使います。「蝦蟇・蛇・なめくじ」の三虫三すくみの構図が物語の骨格をなしていて、それが読者を魅了しました。そして、その構図は『児雷也豪傑譚』にも引き継がれます。

 謀反で滅亡した肥後の豪族尾形氏の遺児周馬弘行は信濃に逃れ、妙香山中で蝦蟇の精霊仙素道人(せんそどうじん)から妖術を授かり、義賊児雷也を名乗り、黒姫山に山塞を構え、妖術を駆使して、尾形家再興を志します。児雷也の前には大蛇から生まれた大蛇丸が現れ、怪力の美女綱手とともに、児雷也(蝦蟇)・大蛇丸(蛇)・綱手(蛞蝓)の三すくみの戦いが繰り広げられます。さらに、河竹黙阿弥児雷也豪傑譚話』(嘉永5年)として歌舞伎に脚色翻案され、多くの忍者ものの物語やキャラクターの題材となりました。

 さて、悪人役の大蛇丸は越後の青柳池で生まれています。越後の郷士松崎四郎太夫の子玉の介が女の姿で現れた青柳池の大蛇と契りを結びます。息子を心配した四郎太夫は弓で大蛇を退治しますが、これを知った玉の介は青柳池に入水自殺。退治された大蛇の腹からは赤子が出てきます。この子は後に母の仇として四郎太夫を殺害して佐渡へ渡り、強盗の首領・大蛇丸となって佐渡真野山に棲むことになります。

 妙高、黒姫、戸隠などの山々の他にも越後の各地が舞台となっています。大蛇丸は越後の青柳池で生まれていますが、その場所はかつての中頸城郡青柳村、今の上越市清里区青柳ではないかと思われます。そして、青柳池は坊ヶ池かも知れません。また、越後月影家は東頚城郡月影村、今の上越市浦川原区にあったと考えられます。佐渡には今も真野山があります。信州の金持ち富貴太郎は越後熊手屋の遊女あやめ太夫に惚れていて、児雷也の一味と間違われて召し捕られますが、打ち首の直前に児雷也によって救出されます。

 物語の展開される場所が越後、信州が中心となり、妖術を駆使したダイナミックな戦いが何度も繰り返されます。勧善懲悪を超越する超自然的な闘い自体が主題になった娯楽大作は時代を超越して人々の心を掴むようです。

 歌舞伎の「児雷也豪傑譚話」の原作は河竹黙阿弥で、『児雷也豪傑譚』を脚色したものです。元の物語では、足利将軍の時代、大蛇が取り付いた大蛇丸は執権照友に取り入り、その養子となって天下に大乱を巻き起こそうと考えます。その軍勢に攻め滅ぼされた尾形家の嫡子雷丸と松浦家の綱手姫は共に大蛇丸に谷底に突き落とされます。しかし、二人は妙香山の仙素道人に救われ、共に成長し、蝦蟇(がま)の妖術と蛞蝓(なめくじ)の妖術を授かって夫婦となり、敵を討ち、お家再興のために旅に出ます。

 初演は1852年で、八代目市川團十郎(だんじゅうろう)が児雷也、二代目市川九蔵(くぞう)が仙素道人と盗賊夜叉五郎(やしゃごろう)と富貴太郎(ふきたろう)の三役、三代目嵐璃寛(あらしりかん)が高砂勇美之助(たかさごゆみのすけ)、三代目岩井粂三郎(いわいくめさぶろう)が妖婦越路を演じました。

 これは妖術を使う児雷也が活躍する合巻の歌舞伎化であり、当時人気随一だった八代目團十郎児雷也を演じるとあって評判となり、1855年5月にはその続編となる「児雷也後編譚話(じらいやごにちものがたり)」が上演されました。

 さて、そのあらすじを見てみましょう。幕府の執権職月影郡領は、武勇に優れた大蛇丸を養子に迎えるが、実はこの大蛇丸こそ、この世を魔界にかえようと企む蛇の化身でした。その妖術に操られた郡領は、盟友である大名尾形左衛門と松浦将監を滅ぼし、尾形の嫡子雷丸と松浦の息女綱手姫を谷底へ突き落とします。でも、二人は妙香山の仙人仙素道人によって命を救われ、やがて成人した後、雷丸は児雷也という名と蝦蟇の妖術、綱手は蛞蝓の妖術をそれぞれ授けられます。そして、大蛇丸打倒の鍵となる名剣・浪切丸を求めて旅立ちます。義賊となった児雷也は、一度は大蛇丸の妖術に破れますが、生き別れになっていた姉あやめの犠牲によって力を取り戻し、浪切の剣を手に入れるため、硫黄の噴出す箱根の地獄谷へと突き進みます。後を追った大蛇丸との立ち回りの末、浪切の剣の霊力によって大蛇の本性は浄化され、緒方・松浦の家名再興も許されて、三人は国づくりに力を合わせることを誓い合います。

*『児雷也豪傑譚』全二巻が高田衛監修、服部仁、佐藤至子編・校訂で、2015年に国書刊行会より出版されました(佐藤至子「『児雷也豪傑譚』における蛇の物語」、『日本文学』62巻4号、pp.53-62、2013)。

*私がいた文学部にあったのは国文学専攻、日本史専攻で、日本文学専攻や国史専攻はありませんでした。私はいずれの専攻にも属したことがありませんので、文学も歴史も素人です。ですから、「妙高児雷也」が素人老人の臆見に過ぎないと信用しない人がほとんどの筈です。そこで、私の要約に似た玄人の意見を紹介しておこうと思います。それは岡本綺堂の小論です。岡本綺堂は「半七捕物帳」で有名な作家であり、歌舞伎の劇作家としても有名でした。その小論は「自来也の話」で、青空文庫に入っていますから、Web上で簡単に読むことができます。関心のある方は是非読んでみて下さい。