黒姫伝説、戸隠、鬼無里、別所温泉の鬼女紅葉伝説、そして信濃町の熊坂長範伝説など、信濃には私たちの心を躍らす昔話がたくさん残っています。平地の続く、豊かな農村地帯と違い、森や山、池や沼が重なる里山、そして山岳地域は超自然の化け物たち、アウトローたちが住み着くには格好の場所で、そこではスリリングな戦いが様々に展開されます。越後に比べ、信濃は人々に人気の昔話の背景、状況を供給するには格好の自然環境を持っていると言えます。
日々平穏で、豊かで安定した農耕社会には格別に物語ることがないのが普通です。厳しい自然には激しい内容の伝説や物語が不可欠ですが、それに支えられる必要がない日常生活は幸せそのものです。大泥棒はアウトローの英雄で、世界中に見られる、物語の普遍的な主人公です。ロビン・フッドに近いのは熊坂長範より、石川五右衛門かも知れません。鬼や妖怪も超自然の対象として、キングコングやゴジラと同じ類の存在です。どちらも平凡な人々と違って、普通の人にはできないことをやってのける英雄的存在なのです。
大泥棒の熊坂長範、妖術を使う児雷也の話をこれまで述べてきました。私のような団塊世代には長範も児雷也も知っている人が多いのですが、今の若者は二人とも知らないのではないでしょうか。ふるさとの昔話を知ることがふるさとの理解につながるという信念は多くの人に当たり前のように思われています。それは同じ昔話を一緒に聞き、憶えたという記憶のためではないでしょうか。ふるさとに昔から残る昔話はふるさとを代表し、ふるさとの歴史を象徴するとほぼ疑いなく信じられていま。昔話はふるさと固有のものという常識は昔話を一緒に聞いたという経験からつくられていて、その昔話の内容がふるさとに固有のものではないのです。多くの昔話は日本に渡来した人たちがもたらしたもので、例えば児雷也の物語は中国起源であることがわかっています。つまり、昔話は他から移入されたもので、その地に合うように山や川が新しい状況設定に使われ、物語の状況設定が変更されたものがほとんどなのです。これが「ふるさと化」です。特定地域の物語に書き直され、特殊化、固有化されたのです。それが、児雷也の場合は巧みな状況設定とストーリーの面白さが流行を呼び、全国版にまでヒットすることになります。しかし、この「脱ふるさと化」は瞬く間に廃れ、児雷也流行はすっかり消えてしまいました。固有種のように残った紅葉や長範は今でも大切にふるさとの有名人として守り続けられています。
昔話が長く保存されるのを可能にしてきた一つが芸能で、それが持つ役割は計り知れません。熊坂長範の能や歌舞伎、児雷也の歌舞伎や映画は今の私のふるさと像の一端を支えていることに改めて驚かされます。今では信濃の人も越後の人も、実は芸能化された昔話を通じて、かつての昔話を想像しているのです。「紅葉狩」や「熊坂」の能、児雷也のいくつもの歌舞伎が今の私たちの昔話を支えていることは間違いないでしょう。ですから、私流の昔話の楽しみ方は芸能、浮世絵、読本を楽しむことであり、映画、落語、講談という芸能は昔話を味わう欠かせない近代的媒体なのです。今ではリモートで現代風に芸能を楽しみながら昔話も味わうという訳で、これも私流ということになります。