伝承から芸能へ:ふるさと化と脱ふるさと化

 上記のタイトルで既に記事を書きました。それをある観点から見直してみましょう。

 ふるさとである信越地方の言い伝え、伝承、民話などを探っていくと、もっぱら神話中心の出雲文化の信越への伝播があり、その後に登場するのが妖怪や鬼、大泥棒の物語です。さらに、江戸時代に入り、近代の雪国の自然、祭りの行事や風習(例えば、『北越雪譜』)へと話題が移っていきます。

 そこで何度も述べてきた『児雷也豪傑譚』という合本を例に、児雷也の歴史を辿ってみるとどうなるでしょうか。合本の人気によって、その後につくられた歌舞伎ではなく、その前がどうだった探っていくと、元本である感和亭鬼武の『自来也説話(じらいやものがたり)』(1806)へ到達します。さらに辿れば、宋代の『諧史』中の「我来也」(『唐宋伝奇集(下)』岩波文庫)に到達し、中国の説話へと辿り着くことになります(「我来也」は盗みの後で「俺が来た」と書き残したことから命名された)。それをさらに遡るなら、人々の間の言い伝え、民間伝承などに行き着く筈ですが、その起源となるとよくわかりません。児雷也の物語が中国に起源をもつことは窺えるのですが、はっきりした起源は他の場合と同じように霧の中です。そして、これこそが民間伝承の特徴なのです。

 とはいえ、芸能や文学の始まりがそこにあると想定し、それを最も原初的な形のままに示そうとした一つが柳田国男の『遠野物語』です。妖怪、神、行事や風習など、民間の伝承をそのまま編纂し、それでありながら文学的な文体をもった作品になっているのが柳田の『遠野物語』です。『遠野物語』は民間伝承が芸能や文学の第一歩なのだということを暗黙の裡に表明し、それを実証しています(『遠野物語』は「青空文庫」で読むことができ、Wikipediaでも詳しい説明があります)。

 人々によって無意識のうちに生み出され、それが共同体に受け入れられ、伝え続けられることが伝承のもつ大きな特徴です。それに対して、意識的な創作、そしてその改作が文学や芸能の特質です。そして、それら両方を含むのが共同体の文化であり、それが伝統となってそれぞれの文化の独自性を生み出してきました。個人の信念、信仰、妄信、盲信、夢、幻覚などが事実として解釈され、自然発生的に、意図的でない仕方で、物語が生まれ、それが集団の中に定着していき、さらに意識的、意図的な創作がそれに続き、それらが総合されて文化や伝統として結実してきました。

 無意識的であれ、意図的であれ、物語に登場する様々な名前は偶然的に選ばれ、対象を名指すことになります。意図的な創作でも、無意識的な思い付きでも、どの対象にどの名前を付与するかの選定は多くの場合偶然的です。既存の名前を変更する場合は違いますが、全くの最初の命名について、特に固有名詞(proper name)は100%偶然的なのだというのが「指示の因果説」と呼ばれる考えです。それによれば、偶然的な命名によって物語で使われ出し、物語が変遷する中で、名前はいつの間にか歴史を持ち、その歴史によって必然的な特徴をもち始めます。上述の「児雷也」はその典型例です。固有名詞がいかなる意味をもつかという論争は長い歴史を持っていますが,20世紀に大別して二つの有力な説(記述説と因果説)が競い合いました。記述説によれば、固有名詞は非常に豊富な意味を持つと主張し,因果説は固有名詞が全く意味を持たないと考え、互いに正反対に見える主張を展開したのです。命名についても、必然的だという記述説に対し、因果説は偶然性を主張しました。以後の話を因果説の立場から考えたもので。

 ふるさとの伝説は、意識的に芸能化され、ふるさとを離れて、広く伝播し、普遍化されていきます。芸能は地域から地方へ、さらに全国へ伝播し、ふるさとを離れていきます。それは子供が育ち、ふるさとを離れていくのに似ています。例えば、「仙素道人」という固有名詞は道教の仙人、修験道の修行者を連想させるものです。本名以外につける風雅な名が雅号ですが、会津八一の雅号は「秋艸道人」で、この場合の「道人」は俗事を捨てた人を指します。仙素道人の「道人」は仏教や道教の修行者を指すのですが、彼に蝦蟇の妖術を授けられる児雷也の原初のストーリーが信越地域に移入され、その詳細なシナリオ作成のために登場人物と場所や場面のような背景とが定められるのですが、妙高や黒姫がその状況設定のために使われた、利用されたと考えることができます。妖怪、泥棒には街中ではなく、里山や洞穴が格好の状況、背景となるのも容易に想像できます。自発的、自然発生的な説話はまずなく、それらは別の場所から伝えられてきたもので、それが文化の伝播と呼ばれてきた現象です。そうなると、ふるさと独自の文化とはふるさとに起源をもつものに限られるのではないことになります。例えば、食べ物。共有される文化としての食文化はふるさとの特徴の一つですが、ふるさと独自のものは少なく、他の地域と共通のものが混合されていて、共有されるものがほとんどです。

 中国から移入された説話が日本で再編される際、その状況設定によって「ふるさと化」が起こります。偶然的にふるさと設定が登場するものの固有名詞を中心に行われ、妙高、黒姫、戸隠などの環境が説話の新状況として選ばれたのです。この「ふるさと化」が優れていて、人々の心をしっかり捉えると、素朴な説話は芸能として能や歌舞伎、さらには読み本や浮世絵として取り上げられ、商業化されて、人気と共に普及していくことになります。これが「脱ふるさと化」です。こうして、全国版の児雷也の登場となり、ヒーローとしての児雷也が生まれるのです。これを単純化すれば、物語のローカル版がふるさと化だとすれば、全国版が脱ふるさと化と言えます。

 事柄のふるさと化と脱ふるさと化は、組み込みと局所化によるふるさと化と、普遍化と一般化による脱ふるさと化のことです。児雷也妙高、黒姫、戸隠の山麓に組み込まれ、三竦み(さんすくみ)の仕掛けによってふるさと化され、文学、歌舞伎などによって普遍化、一般化され、脱ふるさと化されていったのです。

 物語化、演劇化を含む芸能化のために必要な状況設定の重要なものの一つが背景、舞台であり、登場人物だけでなく、場所や家屋といった環境も不可欠です。どこで生まれ、どのように育ち、何を学び、成長したかを表現するための適切な空間として信越の山々がほぼ偶然的に選ばれたのです。

*指示の因果説(causal theory of reference)はクリプキ(1980)によって主張されました。