伝承から芸能へ:ふるさと化と脱ふるさと化

 信越地方の言い伝え、伝承、民話などを探っていくと、神中心の出雲文化の後に登場する妖怪や鬼の物語、さらには近代の雪国の自然、祭りの行事や風習(例えば、『北越雪譜』)へと移っていきます。『児雷也豪傑譚』という合本を辿るなら、能や歌舞伎を経て、『自来也説話(じらいやものがたり)』へ、そして宋代の『諧史』中の「我来也」(『唐宋伝奇集』岩波文庫)に到達し、中国の説話へと至ります。それをさらに辿るなら、普通の人々の言い伝え、伝承などに行き着く筈ですが、その先はよくわかりません。芸能や文学の始まりがそこにあり、おそらく柳田国男の『遠野物語』はそれを示すものでしょう。妖怪、神、行事や風習など、民間の伝承をそのまま編纂し、それでありながら文学的な文体をもつ作品になっているのが柳田の『遠野物語』です。民間伝承は芸能や文学の第一歩なのだということを暗黙の裡に表明しています。

*『遠野物語』は青空文庫で読むことができ、Wikipediaでも詳しい説明があります。

 無意識のうちに創作され、その受動的な創作こそが伝承の特徴です。一方、意識的な創作、改変が文学や芸能の特質であり、それ等を共に含むのが文化であり、伝統です。個人の信念、信仰、妄信、盲信、夢、幻覚などが事実として解釈され、自然発生的に、意図的でない仕方で、物語が生まれ、それが集団の中に定着していき、文化や伝統として結実します。

 ふるさとの伝説は、意識的に芸能化され、ふるさとを離れて、広く伝播し、普遍化されていきます。芸能は地方から全国へ伝播し、ふるさとを離れていきます。それは子供が育ち、ふるさとを離れていくのに似ています。

 仙素道人に蝦蟇の妖術を授けられる児雷也のストーリーが考案され、シナリオ作成のために場所や場面のような背景として妙高や黒姫が使われたと考えられるのです。

*本名以外につける風雅な名が雅号ですが、会津八一の雅号は「秋艸道人」。仙素道人の「道人」は仏教や道教の修行者を指すのですが、秋艸道人の「道人」は俗事を捨てた人を指します。

 妖怪、泥棒には街中ではなく、里山や洞穴が格好の状況、背景となります。自発的、自然発生的な説話はまずなく、それらは別の場所から伝えられてきたもの、文化の伝播が考えられます。そうなると、ふるさと独自の文化とは起源のことではなくなります。例えば、食べ物。共有される文化としての食文化はふるさとの特徴の一つですが、独自のものと共通のものが混合されていて、共有されるものがほとんどです。

 事柄のふるさと化と脱ふるさと化は、組み込みと統合によるふるさと化と普遍化、一般化による脱ふるさと化のことです。児雷也妙高、黒姫、戸隠の山麓に組み込まれ、三竦み(さんすくみ)の仕掛けによってふるさと化し、文学、歌舞伎などによって普遍化、一般化され、脱ふるさと化されていきます。

*三竦みは、「AはBに強く、BはCに強く、CはAに強い」といったような関係のことです。じゃんけんのグー、チョキ、パーの関係が三竦みの例です。昔から知られている別の例が、ヘビ、カエル、ナメクジです。