不識の識、あるいは無知の知

  インドから中国に来た達磨を熱心に迎え入れたのが梁の武帝。仏法に深く帰依する武帝は宮中に達磨を招き、教えを乞うのだ。
  「私は寺をつくったが、その功徳は何か」

自分の善行への見返りは何かと尋ねたのである。それに対して達磨は短く答える。

「無功徳」

功徳欲しさに行う善行は何の役にも立たず、利己的なものに過ぎないというもので、望みの答えを得られなかった武帝は、

「如何なるか聖諦(しょうたい)の第一義(仏教最高の真理は何か)」

と尋ね、達磨は、

廓然無聖(かくねんむしょう)(カラリとして聖なるものなし)」

と応じる。「廓然」はからりとして、何にもとらわれもない無心の境地のこと。その無心のところには聖なるものなしと達磨は言い放ったのだ。仏法に「聖なるもの」が無いと言われた武帝は、茫然自失。自らのことを全否定されたようで、不遜に見える達磨に対して、

「では、私の前にいるお前は何者か」                                       

と尋ねる。達磨の即答は、

「不識(ふしき)」。

 この不識は「しらない」という意味の言葉だが、なぜ達磨は「不識」と言ったのか、これが有名な不識問答と呼ばれるもの(『碧巌録』第一則)。
 さて、「不識」で思い浮かぶのはソクラテスの「無知の知」。

(1)知っていることを知る
(2)知っていないことを知る

 「何」を知っているか、とソクラテスに問われれば、その答えは、人の名前、計算の仕方、離婚の理由といった諸々のもの。様々に知っている状態が異なっていて、一筋縄でいかないのが私たちの知識の実態。だから、「知っていること」を知る仕方も多様で、差異があり、「知の差異性」と呼ぶこともできる。

 「何」を知っていないか、と問われれば、知っていないのだから、何を知らないかは答えようがないと(「知る」を行為と解して)答えるのではないか。そうでなければ、知っていないことを比喩的に表現して、間接的に答えるしかないだろう。これらの答えはソクラテスの「無知の知」とは異なる。ソクラテスの場合は次の(3)のようになっている。

(3)知っていないということを知る(ソクラテス的な「無知の知」)

(2)は「I know what I don't know.」、あるいは「I know what I didn't know.」のことだと考える人がほとんどだろうが、ソクラテスの場合は「I know that I don't know anything.」、あるいは「I know that I know nothing. 」、「I know one thing: that I know nothing.」ではないのか。ソクラテスの場合、何を知らないかの「何」は問題にならない。そのため、無知の確認には差異はない。つまり、「無知の同一性」が成り立つ。
 「知る」が行為であるのと違って、「知らない」は行為ではなく(心的な)状態である。これは、「歩く」は典型的な行為だが、「歩かない」は文字通り動作の否定であり、行為ではないのと同じことである。

(4)知っていることを知らない
(5)知っていないことを知らない

 いずれも矛盾した、無意味な文だと直感するかも知れないが、矛盾でも無意味でもない。実際、(1)と(2)の「知る」は認識するという行為を表現しているが、(4)と(5)の「知らない」は行為ではなく、心的状態を表現している。ついでながら、「知っている」、「知っていない」はいずれも心的状態に言及している。「知らない」は行為ではなく、一つの心的状態であり、(4)も(5)も高次の意識状態の表現として可能である。

(6)知ることを知らない
(7)知らないことを知らない

 これらの文もやはり矛盾でも無意味でもない。ソクラテス無知の知は心的な状態を知ること、わかることである。それと同じ仕方で知の知を理解すれば、知っている状態を知ることであるが、それは少々退屈なことで、面白みがない。知っている状態を知ることと、知る行為を知ることは違っている。後者は知ることを自覚的に行うことに過ぎず、高次の意識ではない。
 肝心な点は、何を知っているかの「何」に応じて、「知っていることを知る」が変わることである。再度確認してみないと知ると言えないものがたくさんある。「知っている」と言っても尋ねられるたびに実行しないとわからないものも多い。「知っている状態」は様々で一言でまとめることができないのである。ところが、知っていないことは再度知るなどということはできないし、知っていないということを知ることは知っていないことの内容の再確認は不必要。それゆえ、いずれにしろソクラテス無知の知は「知の知」とは根本的に異なるのであり、真に厄介なのは「知の知」なのである。「知の知」の解明こそが賢者の石を手に入れる鍵を握っているのである。
 そして、ソクラテスが知っていない心的状態を知るというのとは違って、「知っていない状態」を高次の意識として知るのではなく、「知っていない内容」を知るのが知ることのまともで当たり前の役目だということを肝に銘じるべきなのである。これでスッキリしたかと言えば、一層混乱しただけかもしれない。

 となれば、「経典の言明から離れて、もっぱら座禅することによって釈迦のの悟りを直接体験する」ことが重要で、それが禅の基本であると言われてきたことも納得できそうに思えてくる。禅はインドで古くからある精神修行の方法で、それが仏教に取り入れられた。「不立文字」は、禅宗の開祖である達磨の言葉として伝わっており、「言明は解釈によってどのようにも変わり、そこに真の仏法はないと主張され、したがって、真理を悟るにはテキストに頼らない」という戒めであると言われると、もっともらしく聞こえる。それゆえ、上記のような「無知の知」の言葉を使った分析は軽視され、不識の意義を直観することが重視されてきた。

 さて、知る(識る)ことについて達磨とソクラテスのいずれのやり方に軍配を上げるべきだろうか。