「不識」を巡る老いの杞憂:再訪

 林泉寺の山門の扁額「第一義」は上杉謙信の自筆として有名ですが、それは彼の「不識」問答へのこだわりから書かれていて、重要なのは「第一義」ではなく、「不識」なのです。

 眼は外界のものを見ることができますが、自分の眼を(鏡などを使わない限りは)直接に見ることができません。その「不見」にこそ、眼の本質があり、それと同様に私たちの知っている自分は、意識できる自分でしかなく、無意識を含む「自分そのもの、自分自体」ではないとよく主張されます。ですから、私は自分自身、自分自体を知ることができない、つまり「不識」なのだと説明されています。このような説明自体が不自然で、信頼できないと感じる人が多いと思います。実際、カントが「物自体」を知ることはできず、知ることができるのは表象に過ぎないないと主張することは、仏教の第一義は不識であるという主張によく似ています。

 また、「黙識」も「不識」と似たような言葉です。言葉を介さない知識となれば、「直観」や「技能」、「コツ」や「技」が思い当たります。そして、黙識はそれらに似たようなものだと推定できそうです。そうなると、「暗黙知(tacit knowledge)」と言う言葉に行き着きます。どれも言葉を越えた、あるいは言葉からは独立した直観、直感を重視するもので、禅の教義に欠かせないものと重視されてきました。

 物自体も暗黙知も理性的、合理的な知識とは異なると切り捨てる前に、「不識」について今一度確認しておきましょう。

 『碧巌録(へきがんろく)』第一則、『従容録(じゅうようろく)』第二則の公案は大変有名で、そこに「第一義」、「不識」が登場します。達磨と武帝との問答は「達磨廓然無聖(だるまかくねんむしょう)」と呼ばれ、それを中村不折が1914年に描いています。その公案を覗いてみましょう(『碧巌録』の他にも、『景徳傳燈録』第三巻、『正法眼蔵』「行持」巻(下)参照)。

 

第一則 達磨廓然無聖

本則

梁の武帝達磨大師に問う、「如何なるかこれ聖諦第一義(しょうたいだいいちぎ)」

磨云く、「廓然無聖(かくねんむしょう)」

帝云く、「朕に対する者は誰ぞ?」

磨云く、「識らず」

帝、契わず、達磨ついに江を渡って魏に至る。

(以下略)

(訳)

梁の武帝達磨大師に聞いた、「仏法の第一義(第一原理)はどのようなものですか?」

達磨は言った、「からりと晴れ渡った青空のように「聖」も何も無い」

武帝は言った、「朕に向かいそのようなことを言っているお前は一体何者だ?」

達磨は言った、「そんなことは識(し)らん」。

武帝は達磨の心を理解できなかった。達磨はついに江を渡って魏に去った。

(以下略)

(注釈)

 梁の武帝は仏教に帰依していて、「自分は即位以来、多くの寺を建立し、多くの僧侶を育て、仏法修行に精進しているが、はたしてどんな功徳があるのか」と達磨に問いかけます。ところが、達磨は功徳などないと答えるのです。でも、武帝にはこの答えが理不尽で理解できません。というのも、仏教は善因善果、悪因悪果の因果応報をもとに、「修善奉行」(善業を修めよ)「諸悪莫作」(悪い事はするな)と説いているからです。そこで、武帝が尋ねます。「では、仏法の根本原理とは一体何なのか」と。「からりと晴れた青空のようなもので、聖と呼ばれるものなどない」というのが達磨の答え。武帝はその意味が理解できず、「朕に対する者は誰そ」(私の前にいるあなたは一体誰ですか)と質問し、それに対する達磨の答えが「不識(ふしき、知らない)」です。

 

 この注釈をさらに続けると、不識とは単なる「知らない」という意味ではなく、思量すること、考えることが不可能という意味だということになり、「廓然無聖」は「不識」と同じことになり、それがこの公案の核心であると解説されることになるのですが、それでわかったと合点する人はいないのではないでしょうか。

 ところで、経験科学の理論は形式的には仮説演繹システムとして表現されます。基本原理は論理的には仮説に過ぎなく、それ自体が真かどうかはその仮説から導出される他の命題を検証することによってしか確かめることができません。つまり、仮説自体は検証できないのです。このことを思い起こせば、「仮説を直接知ることはできない」と言うのが不識の今様の解釈となるのかも知れません。

 禅の公案集は問題集であり、仏教の教えを系統的に教えるのではなく、問題を解く仕方で実践的に教える方法です。若き謙信はこの最初の公案に強い感銘を受けたのです。「第一義」を山門に掲げる代わりに「不識」でもよかった筈です。その方がこの公案の核心を表現しているからです。実際、謙信は自らの法名を「不識庵謙信」とし、庵号不識庵でした。

 では、なぜ達磨は「不識」と答えて、武帝のもとを去ったのでしょうか。そこにはどのような真理が隠れているのか、それに答えることが公案の役割なのですが、これだけの話からきちんとした解答が得られるのかと言えば、情報不足だということになります。そして、それだけでなく、物語の筋立ても達磨の傲慢な態度ばかり目立ち、納得できる解答はできないというのが普通の反応ではないでしょうか。不親切で、明確な答えが得にくい話が第一則「達磨郭然無聖」であるというのが、私を含めた一般的な印象であり、正に禅問答の本性を示しているということになるのです。

 天室光育(てんしつこういく、1470-1563)は、戦国時代の曹洞宗の僧侶で、林泉寺六代住職、そして上杉謙信の師です。謙信は天室光育、そして七代益翁宗謙(やくおうしゅうけん)という二人に教えを受け、その教えが彼の人格形成に深く寄与することになります。謙信は1530年越後の守護代を務める長尾為景の四男として生まれました。謙信は7歳のとき、為景の居城春日山城の横の曹洞宗林泉寺に預けられます。この林泉寺で教育に当たったのが天室光育でした。天室光育は、幼い謙信に対しても厳しく指導します。謙信は7年間、天室光育から信仰心や人生における心構えをたたき込まれました。林泉寺の住職は天室光育から弟子の益翁宗謙に引き継がれますが、謙信は飽くことなく参禅を続け、益翁宗謙からも教えを受けました。ある日益翁宗謙は、「達磨不識意旨如何(達磨が「不識」といった意味は何か)」という問いを出しました。

 返答に窮した謙信は「只管打坐(しかんたざ、何も考えず座禅する)」を続け、或る明け方に忽然と悟るのです。彼はすぐに宗謙を訪ねました。宗謙は謙信を見るや、その様子から「否や喜ばしや。太守は解らぬところを見破られたな」と称えたということになっているのですが、これが正確に何を意味しているのか私にはよく解りません。二人には「以心伝心」なのでしょうが、少なくとも私にはチンプンカンプンです。「不識庵」という庵号は「達磨不識」の問答を会得したことに由来し、「謙信」という名前も益翁宗謙に対する帰依の「礼」を表わしているということになっていますが、以心伝心ゆえに正確な内容は宙に浮いたままになってしまいます。

 「達磨郭然無聖」の話は達磨の「不識」で終わりますが、その不識は「無知」とも「不知」とも解釈できます。でも、様々な注釈ができるだけで、結局は文字通りの禅問答でしかなく、どのようにも解釈でき、テキストとしては適切ではないというのが西欧的な評価になってしまいます。そこから、「不識」は不識であると結論することになるのですが、これが老いの杞憂で、それは出発点に逆戻りすることなのです。